https://www.facebook.com/thichnhathanh/videos/vb.7691064634/10153883939529635/?type=2&theater
私の解説は以下の通りです。
「他人はすぐに私たちを映し出す鏡である」というのは、的を射た表現です。その通りで、私たちは自分自身を他人の中に見ます。しかし、時々あるがままの私たちを映し出さない人もいると、私は感じます。その違いは、その人がマインドフルネスで生きているのか、失念で生きているのか、から来ている気がします。全てはあなたが誰であるかに依存します。もし、あなたがエゴ(独立した(自性)自己)であれば、幻想を見て(自分の不健全な心を投影して)、あるがままの相手をを映し出すことはできません。もし、あなたが目覚めた意識(独立していない(無自性)自己)であれば、あるがままの現実に触れ(自分の穏やかな心が鏡の如く現実を反射して)、あるがままの相手をを映し出すことができます。ですから、エゴ(独立した(自性)自己)は失念で生きており、一方、目覚めた意識(独立していない(無自性)自己)は、マインドフルネスで生きています。
以下の通り、他人はマインドフルである場合にのみ、鏡に成り得ます。
マインドフルな人 (A) × マインドフルな人 (B) = BはAの笑顔を映し出す。
マインドフルな人 (A) × 失念した人 (B) = BはAの笑顔を映し出さない。
失念した人 (A) × マインドフルな人 (B) = BはAの怒りを映し出す。
失念した人 (A) × 失念した人 (B) = BはAの怒りを映し出さない。
言い換えると、
マインドフルな人 (A) は、マインドフルな人 (B) と居ると心地良い。なぜなら、 (B) は、あるがままの (A) を映し出せるから。
マインドフルな人 (A) は、失念した人 (B) と居ると不快である。なぜなら、 (B) は、あるがままの (A) を映し出せないから。
失念した人 (A) は、マインドフルな人 (B) と居ると不快である。なぜなら、 (B) は、あるがままの (A) を映し出せるから。
失念した人 (A) は、失念した人 (B) と居ると心地良い。なぜなら、 (B) は、あるがままの (A) を映し出せないから。
全ては、私たちが誰であるかに依存します。
目覚めた意識 x 目覚めた意識 ⇒ ストレスなし、問題なし
目覚めた意識 x エゴ ⇒ 問題 (ストレスなし)
エゴ x 目覚めた意識 ⇒ 問題 (ストレスなし)
エゴ x エゴ ⇒ ストレス + 問題
(注)ストレスは、分離から引き起こされる煩悩より生じる。
ですから、「あなたが誰なのか」、及び「あなたの相手が誰なのか」の両方を、あなたは知る必要があります。エゴの兆候は、「笑顔と愛の欠如」です。一方、目覚めた意識の兆候は、「純粋な笑顔と愛」です。そして、あなた自身とあなたの相手の本質を認識した時、選択的水やり(正しい精進)が極めて重要です。もし、あなたの相手の本質がエゴであると認識したなら、あなたの不健全な心行(精神形成物)の種子が水やりをされない、触れられないように、あなたはエゴから距離を取る必要があります。エゴから距離を取ることは、選択的水やり(正しい精進)であって、分離や差別ではありません。それを覚えておくことは非常に重要です。そして、それは自分のためだけでなく、全宇宙のためにも良いことです。とにかく、あなたは他を平和にするために、自分が平和になる必要があります。