Tuesday, June 9, 2015

マインドフルネス(念)、集中、洞察

以下は、2010年のシンガポール瞑想会におけるティク・ナット・ハン法話からの抜粋です。次のビデオを 1:55:05 から 2:06:22 迄ご覧下さい。


引用:
第二の手法はマインドフルネス)です。マインドフルネスは、マインドフルな呼吸、歩行、料理、運転の実践によって発生させることができるエネルギーのようなものです。マインドフルネスのエネルギーによって、私たちは何が起こっているかに気付くことができます。マインドフルネスによって、私たちは自分の内面と周りで何が起こっているかを理解することができます。マインドフルネスによって、私たちは今、この瞬間に既に手に入る幸福の多くの条件を認識することができます。

私たちのほとんどは幸せになるための十分な条件を持っていないと信じています。私たちは幸福の条件をもっと得るために未来に行きたいと思います。仏陀は反対のことを助言しました。仏陀は、もしあなたが今、ここに戻れば、正にここで今すぐに幸せになるために必要な十分以上の条件を有していることを実感するかもしれないと言いました。フランス人はある歌を持っており、「幸せになるために何を待っているの?」と歌うのが好きです。あなたが幸せになりたいのなら、幸せの条件はあなたのために既に十分以上そろっていますので、正にここで今すぐに幸せになることができるのです。

ですから、マインドフルネスは喜びと幸せの源として説明することができるのです(念生喜楽)。マインドフルネスによって、私たちは自分の内面と周囲にどれだけ多くの幸福の条件を持っているかを理解することができます。そして、これらの幸福の条件に触れる実践で、私たちは正にここで今すぐに幸せになることができるのです。私たちは未来へ行く必要はありません。

知足(足るを知る)の実践があります。 「足」は十分を意味しますが、実際には十分以上です。今、あなたが持っている幸福の条件は十分以上なのです。ですから、マインドフルネスの実践は直ちに私たちに喜びと幸福をもたらすことができるのです。未来は必要ではありません。

マインドフルネスの後には集中がやってきますが、喜びと至福は集中からも生まれ得ます(定生喜楽)。もし、あなたが自分の幸福の条件に気付いているなら、幸せになることができます。そしてもし、あなたの幸せが強力であれば、集中のエネルギーも強力になるでしょう。追って瞑想会において、あなたは集中(サマディ)が喜びと幸福の源であることを学ぶでしょう。

洞察、理解は幸福の別の源です(慧生喜楽)。洞察、智慧があれば、私たちはもはや苦しみの犠牲者ではなくなり、幸福が可能になります。ですから、仏陀の教えは喜びと幸福感をもたらす方法を持っており、非常に具体的で、私たち一人一人が実践者として実用できるのです。

仏教の文献においては、喜びと幸福の間で区別があります。喜びには興奮がありますが、あなたが真の幸福に至ると、はるかに穏やかになります。仏教徒の仲間の間で使用されている例として、砂漠を歩いている間に水がなくなった人の話があります。その旅人は非常にのどが渇き、苦しみます。彼は何か飲みものが欲しいと思いますが、どこにも水を見つけることができません。突然、彼はオアシス、目の前に木と湖を見ました。彼はオアシスに到達するために更に2マイルを歩く必要があります。そして、彼の中には喜びの気持ちが生まれます。ですから、彼は到達して水を飲むことに興奮しているのです。喜びの気持ちにはまだ興奮が残っているということです。そして、旅人は実際に到着し、ひざまずいて両手でをすくって飲み始めます。それが幸福感なのです。

ダルマ(法)は贈り物であるということを、私たちは覚えておく必要があります。初めも、中間も、最後も美しいのです。ダルマは、一瞬一瞬喜びと幸せをもたらすことができます。そして、私たちはダルマを実践することに苦しむ必要はありません。あなたがダルマを実践し、喜びと幸せを感じるなら、その実践は正しいと理解してください。
:引用終わり

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-44494852

ティク・ナット・ハン