Monday, June 13, 2016

心の対象の中の心の対象の瞑想 (7)

心の対象の中の心の対象の瞑想」に関する次のティク・ナット・ハンのビデオを 2:02:30 ~ 2:11:32 迄ご覧下さい。


以下は抜粋です。

引用:
歴史的な次元では、生と死、これとその他の間に、まだ差別があります。しかし、あなたがより深く入り込んでいくと、全てのこれらの概念はただ消滅し、生まれることも死ぬこともない(不生不死)来ることも行くこともない存在も非存在もない本質にあなたは触れます。あなたは全ての概念から解放されます。それが涅槃です。それは冷却の状態です。涅槃の哲学用語、精神用語は、日々の存在の話から来ています。朝、あなたがあなたの夫のために朝食を作る時、あなたは火をおこすために何本かの棒を集める必要があります。昨日の火は完全に消えてしまったかもしれません。ですから、あなたが灰に触れる時、灰は冷却されていて、もう指を火傷させることはありません。ですから、涅槃は冷却の状態であり、燃えている状態ではありません。

仏陀煩悩の無い状態について話すために、涅槃という言葉を使いました。なぜなら、怒り、恐れ、絶望のような煩悩は、私たちを燃やすからです。煩悩は私たちを苦しめます。私たちがこれら全ての煩悩を取り除くことができた時、冷却状態にあります。涅槃は冷却冷やすことです。なぜなら、恐れ、怒り、絶望のような煩悩は燃えていて、それが私たちの苦しむ理由だからです。それでは、どうして私たちはこれらの煩悩を持っているのでしょうか?私たちの世界の見方が原因です。私たちが恐れ概念を持っているからです。私たちが独立した実体として生と死存在と非存在私とあなた(自他)の概念を持っているからです。私たちは、私たちの差別心を使います。私たちは、主体と客体物質と心概念を含む、多くの概念に捕捉されています。ですから、煩悩が生じるのです。一度、私たちが、生と死、存在と非存在を含むこれら全て概念を取り除くことができたなら、これら全ての煩悩が生じるための雲(原因)はなく、私たちは自由になります。ですから、涅槃とは自由(解放)のことです。まず第一に、概念からの解放です。

そして、涅槃に到達するためには、あなたはあなたの差別心を使うことはできません。現代科学はそのことを理解し始めています。量子力学あるがままの自然を扱っていると言う科学者がいます。それは不合理です。自然は不合理です。量子力学はあるがままの自然を扱っているということが、不合理なのです。なぜなら、自然はここに存在しており、こことそこの両方で存在し得る、と私たちは考えたからです。自然はであるが、素粒子のような何か他のものかもしれない、と私たちは考えました。なぜでしょうか?なぜなら、私たちは一種の心を使っているからです。それ(心)は、究極(涅槃)に触れることができません。古典的な科学では、概念手法を私たちは持っています。現実は、私たちのから独立することができる、と私たちは信じています私たちがそこに居ようが居まいが、自然同じである(と私たちは信じています)。たぶん、現代物理学では、私たちはもはやそのようには考えません現実は心の作用である、と私たちは理解します。あなたは現実から取り出すことはできないし、現実から取り出すこともできないというような具合に、心は現実と結ばれて(連関して)います。そして、現代科学は、客体と主体は分解され得ないということを理解し始めています。客体と主体相互に依存しています。こちらがなければ、もう一方はあり得ないのです。

ですから、私たちが歴史的次元で使用する心は、仏教では差別心と呼ばれています。中国語では、「分別智」です。差別心は、古典的な科学としては良しとされています。しかし、現代科学としては、差別心はもはや十分良いものではありません。サンスクリット語では、「vikalpajnana」です。 「jnana」は智慧を意味し、「vikalpa」は差別を意味します。差別の心(悪知恵)。(差別心に従うと)私たちは、生と死の間で区別をしなければなりません。生と死は、二つの異なるものであると(区別をしなければなりません)。私たちは、の間で区別をしなければなりません。左右は異なるものであると(区別をしなければなりません)。バラバラです。バラになれません。バラ太陽光になれません。私たちの差別心は、アイデンティティ(身元)の原理に基づいています。AはAにしかなれません。(A = A)バラバラにしかなれないのです。バラ他のものになれません。(同様に)人間人間にしかなれません。人間は植物動物鉱物になれません。それが差別心です。差別心では、私たちは究極の次元(涅槃)に触れることができません。

現代科学はそのことを理解し、感じ始めています。ですから、差別心を使うと、科学者は自然を不合理と見てしまうのです。それ故に、仏教では、私たちが究極の次元に近づくために、涅槃に触れるためには、別の種類の心を使う必要があるのです。しかし、究極の次元は、日常生活から離れたものではありません。私たちが歴史的次元で触れるものは、涅槃を含んでいます。それに十分深く触れてください。そうしたら、非差別の心が、それから涅槃今、ここで手に入ります。あなたは他の場所へそれを探しに行く必要はありません。そのような心は、「nirvikalpajnana」と呼ばれています。非差別の心です。あなたがその種の心を使う訓練をすると、あなたは究極の次元に触れることができますので、もはや苦しむことはありません。あなたは、あるがままの現実に触れます。そして、もはや精神構造物(精神投影、幻想)はありません。
:引用終わり 

(解説)
エゴ(独立した(自性)自己)にとって、歴史的次元における現実は相対的な真実であり、一般的な真理です。アルバート・アインシュタイン一般相対性理論を通して、それを説明したと言っても過言ではありません。アインシュタインの一般相対性理論は、歴史的な次元での二元性に基づいた原理です。一方、究極の次元での現実は、二元性を超越する究極の真理です。それは、非二元性に基づいた涅槃です。目覚めた意識(仏性、神性)のみが、時間と空間のない究極の次元に生きることができます。なぜなら、目覚めた意識は性質であって、物質ではないからです。目覚めた意識は時間と空間を超越しますので、現象界本体の世界同時に生きることができます。私たち(エゴ)が完全な悟りを開いたなら、目覚めた意識が完全に復活し、私たち(目覚めた意識)は1日24時間をマインドフルネスで生きることができ、エゴ(独立した(自性)自己)に戻ることは決してありません。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

アインシュタインの一般相対性理論、1915年