Saturday, June 18, 2016

菩提樹と明鏡 (2)

菩提樹と明鏡(曇りのない鏡)

菩提樹と明鏡についての次の物語をご一読ください。
http://www.buddhistdoor.com/OldWeb/bdoor/archive/zen_story/zen3.htm

(解説)
シン・シャウは二元性に基づいた歴史的次元(現象界)における一般的な真理について説明し、ヒュイ・ネングは非二元性に基づいた究極の次元(本体の世界)における究極の真理について説明したと、私は理解しています。涅槃は究極の次元です。ですから、ヒュイ・ネングが第六代最高指導者に選ばれたのです。そして、一般的な真理は「四聖諦」で言及されており、究極の真理は「般若心経」に記載されているということを、私たちは理解する必要があります。

空間と時間のない究極の次元(涅槃)においては、何も存在できず、全ての概念が絶滅しています。ですから、全ての概念を投げ捨てた者、または無学の人のみが、完全な悟りを開くことができるのです。言い換えれば、学のある人々は自分の頭(脳)で一生懸命学んだ全ての概念を捨てる必要があるということす。この意味で、現行の教育システムは非常に愚かです。なぜなら、学生は将来的に投げ捨てなければならない教科を今学習しているからです。唯一の正しい学術的テーマは、非二元性に基づいている量子物理学かもしれません。

人間の生来の性質は仏性、即ち概念を生じさせない思いやりの性質であると、私は理解しています。そして、概念は、自分を守るために自他を分離するエゴ(独立した(自性)自己)によって、でっちあげられたと、私は理解しています。シスター・チャン・コーンが述べた通り、知覚自体が「頭の中の概念の連続」です。ですから、全ての概念、知覚、思考、見方、言葉、信念等は、煩悩を引き起こす分離のためのものなのです。それ故に、人はそれらに当惑しています。


私たちは、鏡のようにあるがままの現実を映し出す静水のように、穏やかな心を通して現実の本質に触れることができます。しかし、私たちの心が波立つ水のように穏やかでないなら、あるがままの現実を映し出すことはできません。概念は穏やかな心ではなく、煩悩を引き起こします。ですから、私たちは鏡として概念を使うことはできません。私たちが考える(概念を使用する)のを止めた場合のみ、目覚めた意識が復活し、洞察(正しい見方)をもたらします。そのためには、全ての概念の絶滅が不可欠です。これが仏陀の教え、即ちティク・ナット・ハンの教えです。もちろん、現象界、即ち歴史的次元においては、私たちは概念を使う必要がありますけれども。しかし、概念に捕捉されないように非常に注意する必要があります。


人間、動物、植物、鉱物は全宇宙として、皆同じであると私は理解しています。花が考えることなく、ただ咲いているように、鳥が考えることなく、ただ囀っているように、人間は考えることなく、ただ生命の奇蹟に触れています。それは全ての物の生来の性質です。しかし、人間にとっての障害は、概念を使って考えることです。なぜなら、思考は、煩悩や苦しみの源である分離、即ち二元性を引き起こすからです。ですから、私たちは、全ての概念が誤りであることを示す究極の真理を理解することによって、全ての概念を投げ捨てる必要があるのです。