Sunday, September 13, 2015

瞑想=祈り

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仏教の精神では、マインドフルネス、集中、洞察を伴うあなたのなすことは何でも、祈りであるとみなすことができます。あなたが失念の状態でお茶を飲む時、生命はそこにはありません。あなたはそこにはいませんので、真に生きてはいないのです。あなたはマインドフルではなく、集中していません。そして、その瞬間は実践の瞬間ではありません。(意識が分散した)非宗教的瞬間です。

しかし、あなたがマインドフルネスと集中で茶碗を持ち始める時、完璧なマインドフルネスと集中で茶を飲む時、あなたが儀式を演じているように見えるなら、それは既に祈りです。あなたが歩く時、あなたが一歩一歩を楽しむなら、一歩一歩があなたに栄養を与え、あなたを変容するなら、一歩一歩が祈りです。

ですから、仏教の教え、実践、伝統では、瞑想と祈りの間には、本当に区別はありません。なぜなら、あなたがマインドフルで集中している時は洞察力を持っていますので、あなたは仏陀の地(浄土)、仏陀、サンガ(僧)とつながります。そして、あなたが本当に祈る時、あなたはイエス、神の王国とつながります。そして、そのようにつながることは変容と癒しをもたらすはずです。

そして、マインドフルネス、集中、洞察がある時、祈る人と私たちが祈りを向ける人の間にもはや区別はありません。ですから、コミュニケーションが深く総合的なのです。すると、変容と癒しが起こるはずであり、起こらねばねばなりません。
(中略)

キリスト教では、私たちの友人は、「神の御前で、全ての瞬間を生きる」と言います。あなたがマインドフルネス、集中、洞察で生きるなら、あなたは決して神を離れはしません。あなたは神の御前で、常に神とつながってます。

あなたが神の御前で、日常生活の自由な瞬間に生きる時、それはあなたの日常生活が祈りであることを意味します。そして、彼ら(仏陀とイエス)はそうすることができた人です。そして仏教では、私たちはマインドフルネス、集中、洞察のエネルギーを発生させる非常に具体的な方法があることを学びます。そして、私たちの実践は、これら3つのエネルギーを発生させることにあります。これらのエネルギーがあるなら、祈っている人と私たちが祈りを向ける人との間にもはや分離はないでしょう。

あなたがマインドフルネス、座禅、歩行、料理、洗濯を実践する時、あなたが自分の人生を浪費していると感じることはありません。あなたは自分の人生の一瞬一瞬を深く生きていて、あなたの人生が祈りになります。そして、多くの幸福と平和はその種の生き方から生じます。

仏陀とイエスは、マインドフルネス、集中、洞察の状態で、彼らの人生の一瞬一瞬を深く生きていました。ですから、彼らの人生は祈りでした。そして、私たちの人生も祈りになり得ます。


プラム・ビレッジの瞑想室