Tuesday, October 20, 2015

悟り (1)

ティク・ナット・ハンは、「大海の波にとっての悟りは、波が自らを水であると実感した瞬間である」、と説明します。そして、私の理解は次の通りです。

ティク・ナット・ハンは、しばしば、「自分自身に帰宅する」と言いますが、エゴが自分自身に帰宅することはない、と私は感じています。正しい表現は、「自分自身を復活させる」でなければなりません。しかし、エゴと本当の自分は表裏一体であると私は理解しています。エゴと本当の自分は二人ではありませんが、一人でもありません。

自分の感覚を失うまで月を見つめる代わりに、私はマインドフルな呼吸によって、私の六感覚(五感と心)を閉鎖します。概念の「私」(=エゴ)の溶解のためには、本当の自分(自覚)が復活する必要があります。不生不死ですので、意識と形ある物は永遠であると私は理解しています。

全ての素粒子とエネルギーは意識へ包み込んでいます。そして、意識は形ある物へ(包み込んだものを)開いています。それらは刻々と変化しています。私は常に自覚です。自覚と形ある物は相互に依存して共同発生しています。自覚は時間と空間を超越しますので、現象と本体の中に同時にいます。全ては自分が誰であるかに依存すると私は理解しています。エゴか本当の自分(自覚)か?

自己探求が心の不浄や対象を取り除き、心を浄化する具体的な方法であると理解しています。しかし、エゴが自らにわずかであっても沈黙を課す(瞑想する)ことは困難です。(思考することが本性の)エゴがどのようにして思考を止める気になるでしょうか?エゴが瞑想するためには何が必要でしょうか?誰が自覚への注意を強制しているのでしょうか?エゴが活発な時に、(エゴに)沈黙を課すことはいかに可能となるのでしょうか?なぜ、エゴは(自分に)沈黙を課したいのでしょうか?

私の場合、私のエゴが苦しみにうんざりした時、私のエゴは苦しみを止めるために真剣に自らを変えたいと思いました。そして、私のエゴは「私はどのようにしたら自分自身を愛せるようになるのか?私はどのようにしたら自分自身を拒絶することを止められるか?」と尋ねました。[私=エゴ、自分自身=本当の自分(自覚)]それが精神的な対話の始まりでした。

ティク・ナット・ハンの「大海の波にとっての悟りは、波が自らを水であると実感した瞬間である」については、私の理解は以下の通りです。エゴ(波)が苦しみにうんざりした時、エゴ(波)は自らを本当の自分(水)であると実感できます。なぜなら、エゴは苦しみを止めるために、自らを変えたいからです。もし、エゴがマインドフルな呼吸を実践したなら、エゴは思考を停止でき、本当の自分を復活でき、本当の自分があるがままの現実に触れることができます。このように、波が自らを水であると実感できるのです。ですから、この詩の私の改訂版は、「大海の波にとっての悟りは、波(エゴ)が自覚を復活させ、自覚が『波は水(現実の本質)である』と実感した瞬間である」となります。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS