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Friday, September 2, 2016

輪廻転生とカルマ

次の「輪廻転生とカルマ」に関する質問に対するタイ・ファップ・ダンの回答ビデオを深くご覧ください。


以下は、ビデオから抜粋したキー・フレーズです。

< キー・フレーズ >

通常、輪廻転生とはあなたが死んで、生まれ変わることを意味すると、私たちは考えます。しかし、実際には輪廻転生は、あなたの人生の全ての瞬間にあります。あなたの体が死に、あなたの体が生まれ変わるということですよね?十万の細胞が死に、十万の細胞が再び生まれています。ですから、私たちは自分の生涯の全ての瞬間に転生しています。これはについてのことです。私たちのもまた、私たちの心の活動は死んで、その後、再び生まれます。

カルマ(因果)の法則によって、あなたが鐘の音に耳を傾け、本当に息を吸って吐く実践をしている時、鐘の音は「原因」であり、息を吸って吐くことは「実践」であり、平和と幸福をもたらすことは「結果」です。ですから、因果の法則は、私たちの生活の全ての瞬間に起きています。私たちがその環境の中で起こっていることに関係することが行動(カルマ、業、実践)です。

ですから、人生の全てのことは、ただ因果の法則に従って進みます。そして、輪廻転生は、あなたが死んで、生まれ変わることを意味するのではありません。しかし、輪廻転生はあなたの生涯の全ての瞬間です。(個体としての)死の瞬間は、単に多くの(細胞の)死の瞬間の一つです。ですから、私たちがこのように理解するなら、無常、無我、因果の法則の性質について非常にはっきりと理解します。どのような結果が生じるかは、あなたがどのような人生を送ったかに依ります。

プラム・ビレッジにおいて、ティク・ナット・ハンはこの言葉(輪廻転生)を使いませんが、実際には本質的に(輪廻転生は)たくさんあり​​ます。輪廻転生、カルマ(因果)の法則は、常にあります。しかし、ティク・ナット・ハンは現実の言葉にはしません。

(解説)
タイ・ファップ・ダンは、「縁起(相互に依存して共同発生)」、即ち歴史的次元(現象界)における究極の真理に従い、生と死の概念を用いて輪廻転生を説明したと、私は理解しています。タイ・ファップ・ダンはなぜ加えて、究極の次元(本体の世界)における究極の真理に従って回答しなかったのかと、私は不思議に感じます。生と死は単なる概念です。真実は不生不死です。質量・エネルギー保存の法則に従って、何も生まれる(創造される)ことはできず、死ぬ(破壊される)こともできません。ですから、異なる形での継続があるだけです。もし、輪廻転生が、死亡時に魂が体から離れて、新しい体に入ることを意味するのであれば、その輪廻転生もまた単なる概念です。ティク・ナット・ハンが言う通り、カルマ(行動、業)だけが真の輪廻転生かもしれません。

そして、ティク・ナット・ハンが輪廻転生とカルマの言葉を使わない理由は、チベット仏教のような欺かれた仏教を回避するためであると、私は理解しています。欺かれた仏教は、「死亡時に魂が体から離れる」と説明しています。しかし、真実は、「心と体はいつも一緒」です。

タイ・ファップ・ダン

Tuesday, July 26, 2016

自分の行動が私たちです。

次の行動(カルマ)についてのティク・ナット・ハンの言葉を、深くご一読ください。
https://www.facebook.com/mindfulnessbell/posts/1075397465885157

「私たちが生み出す全ての思考(考え)、全ての言葉、私たちがする全ての肉体的行為は、決して死にません。何も死にません。これらの行動は常に継続します。それがあなたの継続です。この肉体だけが自分である、とあなたは考えます。それは正見(正しい見方)ではありません。あなたは、はるかにこの体以上のものです。あなたは、あなたの行動です。私が考えること、私が言うこと、私がすることは、私の継続であり、結果をもたらします。そして、その結果が美しいか否かは、完全に行動の質に依ります。 」
– ティク・ナット・ハン、「相互依存、四聖諦、正見」より"

(解説)
私たちは、自分の肉体的行動、口頭による行動、精神的行動(カルマ)を通して、私たちの貯蔵意識(阿頼耶識)に心行(精神形成物)の種を播く、乃至は種を植えます。そして、その種子が水やりをされる、乃至は触れられると、私たちの心の意識(顕在意識)の中に心行(精神形成物)として顕現します。ですから、私たちの行動(カルマ)は決して死ぬことはなく、常に継続します。それ故に、全ての行動(カルマ)は私たちの継続なのです。これが真の輪廻転生であると言えるのかもしれません。私たちがすべきことは、マインドフルネスを通して健全な種子への選択的水やり、及び私たちの心行(精神形成物)を抱きしめ深く観ることを通して根本原因を理解し、不健全な種子を健全な種子へ変容することです。

相互依存、四聖諦、正見に関する次のティク・ナット・ハンの法話概要を、深くご一読ください。
https://drive.google.com/file/d/0B_vcianSBGpHOVV0eXU3b1VNWnM/view
以下は抜粋です。

「親愛なる友よ、ニュートンに代表される古典科学においては、物は独立しています。種子は植物の外部にあり、植物は種子の外部にあります。しかし、量子物理学においては、私たちは物をそうではなく見始めています。物は、もはやそれぞれの外部にあるのではなく、実際にはそれぞれの中にあるのです。」

(解説)
種子目覚めた意識に例えられ、植物に例えられている、と私は理解しています。デヴィッド・ボームは「内在的秩序、即ち包み込まれた秩序は、外在的秩序、即ち開かれた秩序(独立した全てのもの)へ(包み込んだものを)開いている。」[外在的秩序、即ち開かれた秩序(独立した全てのもの)は、内在的秩序、即ち包み込まれた秩序へ包み込んでいる。]、と言いました。そして、内在的秩序本体の世界(究極の次元)における目覚めた意識を意味し、外在的秩序現象界(歴史的次元)における体を意味する、と私は理解しています。別の言葉では、デヴィッド・ボームは「全てのものは、内部で全てのものと結び付いている。全てのものは、全てのものを含んでいる」、と言いました。デヴィッド・ボームはまた、さて、内在的(包み込まれた)秩序は、私たちが全てのものは全ての人へ包み込んでいるということを理解するのに役立つだろう。それは、単に全てのものが全ての人に依存しているというだけではなく、深い意味では実際に全ての人が全ての人であるということである。よく見て、私たちを構成する全ての物質は地球からやって来て地球へと戻るのだから、私たちは地球そのものだ、とも言いました。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-62010528

Thích Nhất Hạnh

Saturday, July 16, 2016

輪廻、転生、継続 +α

次のティク・ナット・ハンの法話ビデオを深くご覧ください。


以下は、私が貴重と感じる抜粋です。

(1:00:23~)
ですから、「無常」の洞察「無我」の洞察は、裁判官、政治家などを含む、全ての人を助けることができます。永遠に変わらないでいられるものは何もありません。2つの連続した瞬間の間でさえもそうです。

最初に、鐘の音を聴くための別の詩がありました。

  「私は聴く。私は聴く。この素晴らしい音は、私を私の本当の自分へ連れ戻してくれる。」 
 (私 = エゴ、即ち独立した(自性)自己、本当の自分 = 独立していない(無自性)自己)

しかし、多くの人は、「自己」という言葉を理解していませんでした。仏教は、「自己」の存在を説いておらず、認めていません。なぜあなたは、「私は聴く。私は聴く。この素晴らしい音は、私を私の本当の自分へ連れ戻してくれる」と、言うのでしょうか?もし、私たちが独断的であってはならないのなら、自己について話せる、と私は思います。自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外の要素のみからできていることを私たちが理解しているならば。自己(エゴ)があるなら、その自己(エゴ)を(本当の自分と)同系交配させてください。すると、その自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外の要素のみからできていることになります。ですから、自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外(無我)に等しいのです。ですから、私たちは言葉に捕捉されてはなりません。自己(エゴ)は存在しない(無我)と言うことは、正しいです。しかし、あなたが自己(エゴ)が自己(エゴ)以外の要素からできていることを理解しているなら自己(エゴ)は存在すると言うこともまた、正しいです(エゴはエゴ以外の要素、即ち無我に他ならないことを理解できているから)。理解できますか?ですから、あなたは争う必要はありません。仏教は非常に寛容です。もし、あなたが寛容でないなら、心を開いてないなら、あなたは仏教徒ではありません。自分だけが真理を手にしていると主張してはいけません。

(1:09:08
ですから、物事は常に変化しており、新しい形をとっています。それが輪廻(生まれ変わり)です。それが転生です。そうすると、あなたが生まれ変わるために、継続されるために、この体の崩壊まで待つ必要はないのです。(中略)

ですから、もし、あなたがチベット仏教の研究生なら、あなたの師の転生を探しに行くのに、師が死ぬまで待つ必要はありません。師はもう既に周囲に存在しています。師は多分、あなたの中にいます。そうすると、あなたの師が存命中に、あなたは師を識別することができます。師がまだ師の現在の体で生きている間に、師の継続をあなたは特定することができます。(中略)

ですから、私たちは自分自身を別の見方で見ることを学ぶ必要があります。私たちは自分自身を、このだけ、この気持ち感情知覚心行(精神形成物)だけとして識別すべきではありません。毎日あなたは、多くの思考発言行動を生み出します。そして、これら(カルマ、業)があなたを継続するのです。(中略)

が常にとなり、となり、となり、お茶となり、あなたのアイスクリームとなって継続するように、あなたは常にあなたのカルマ(業、行動)となって継続します。(中略)

生と死は、全ての瞬間に起こっています。正にこの瞬間に、数百万もの細胞が体内で死んでいます。それは、起こっています。死は後のことだとは考えないでください。死は、あなたが80歳か90歳になった時のことだろうと。いいえ、そうではありません。死は、正にこの瞬間に起きているのです。あなたは今、ここで死んでいる最中です。

なぜ、あなたは死ぬことをそんなに恐れているのですか?なぜなら、あなたは今、あらゆる瞬間に死んでいるからです。他の多くの細胞が生まれるように、多くの細胞が死んでいるのです。そして、この瞬間に、あなたは生まれています。あなたにはひっきりなしに誕生祝いがあり、毎回幸せな瞬間を過ごします。

私たちは超多忙です。私たちの細胞の葬式を設定する時間がありません。私たちの新しい細胞の誕生を祝う時間がありません。誕生と死はいつも一緒です。 一方がなければ、他方はあり得ません。誕生は死と四六時中行動を共にします。(中略)

ですから、あなたは日常生活のあらゆる瞬間に生まれ変わっています。そして、瞑想によってあなたは自分の転生を理解することができます。あなたが思考を生み出すたびに、良くも悪くも生まれ変わっています。そして、全ての思考、全ての発言、全ての行動には私たちの署名がありますので、私たちは自分の行動に責任があります。あなたは(心の)であり、あなたには名前があります。

(1:24:52)
あなたが腕のいい実践者なら、吸う一息だけで、あなたは苦痛を伴う感情喜びへと変容できます。マインドフルな吸う一息が苦痛を伴う感情に、苦しみに(根本原因を解明するための)多くの光明を投じることができます。

(解説)
ティク・ナット・ハンが指摘した通り、チベット仏教の理解では、転生は死後に起こらねばなりませんので、私たちはチベット仏教に注意する必要があります。彼らは、微細な意識が死後に体を離れると信じているのです。

2つのバージョンの自己があることを、私たちは理解する必要があります。一つは、エゴ = 独立した(自性)自己であり、もう一つは、本当の自分 = 独立していない(無自性)自己、即ち目覚めた意識です。悟りや目覚めとは、エゴから目覚めた意識への自己変容を意味します。

ティク・ナット・ハンは、正しい思考(正思惟)について説明しました。私はそれが何を意味するかを理解しています。しかし、「思考」という言葉は、非常に紛らわしいものです。なぜなら、全ての思考が煩悩苦しみをもたらす「分離」を引き起こすからです。ですから、全ての思考は誤った思考であり非思考(考えないこと)が正しい思考なのです。この意味で、誤解を避けるためには、「洞察を得る」と言う方が「正しい思考」と言うよりもはるかに優れています。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275
http://www.slideshare.net/compassion5151/3-46874436

ティク・ナット・ハン

Friday, June 10, 2016

欺かれた仏教(輪廻転生と儀式)

次のティク・ナット・ハンとのインタビュー記事をご一読ください。http://www.lionsroar.com/be-beautiful-be-yourself-january-2012/

以下は輪廻転生と儀式に関する部分の抜粋です。

引用:
質問:仏教徒になるには、輪廻転生を信じる必要がありますか?

回答:輪廻転生は、あなたの体から出て行き、別の体内へ入る魂が存在することを意味します。それは仏教において大変人気がありますが、継続についての非常に誤った概念です。もし、体に生息し、体が崩壊する時に体から出て行き別の形(体)を得る自我(エゴ)があるとあなたが考えるなら、それは仏教ではありません。

あなたが人間を観てみると、五蘊、即ち(人間を構成する)要素である形(体)感情知覚心行(精神形成物)意識を理解します。これら五蘊の外には、魂も我(エゴ)もありません。ですから、(集合していた)5つの要素が解散(溶解)へ向かう時、あなたがあなたの一生の間に行ったカルマ行動が、あなたの継続になります。あなたがしたことや考えたことは、エネルギーとして依然として存在します。あなたが継続するのに、魂、即ち自我(エゴ)は必要ありません。

それはのようなものです。雲が存在しない時でさえ、雲はとして常に継続しています。雲は、継続するためにを持つ必要はありません。始まりも終わりもありません。あなたは、継続するためにこの体が完全に溶解するまで待つ必要はありません。あなたは一瞬一瞬継続しているのです。私が数百人に私のエネルギー伝送すると仮定しましょう。そうすると、彼らは私を継続(継承)します。あなたが彼らを見るなら、(彼らの中に)私を見る、というか、あなたは私を見たのです。もし、あなたが、[自分を指さして]私はこの肉体でしかないと思うなら、その場合あなたは私を見なかったのです。しかし、あなたが私の演説や私の行動の中に私を見る時、あなたはそれらが私を継続していることを理解します。あなたが私の弟子生徒友人を見る時、あなたは私の継続を見ます。私は決して死ぬことはありません。この体の溶解はありますが、それは私の死を意味するものではありません。私は常に継続します。

このことは、私たち全員に当てはまります。五蘊は常にエネルギーを生み出していますので、あなたは単なるこの肉体を超えています。それはカルマ、即ち行動と呼ばれています。しかし、行為者はいません。あなたは行為者を必要としません。行動だけで十分です。このことは、量子物理学の観点から理解することができます。質量とエネルギー、そして力と物質は、2つの独立した物ではありません。それらは同一です。

質問:儀式で仏教徒になれますか?

回答:いいえ、仏教徒になるのは儀式によってではありません。仏教徒になるのは実践に全力を傾けることによってです。仏教徒は多くの儀式祭典に捕捉されますが、仏陀はそれを好んでいません。経典では、特に仏陀が悟りを開いた直後の教えにおいては、私たちは儀式をなくすべきであると仏陀は言いました。あなたがただ儀式を行ったからといって、悟り解放を得ることはありませんが、人々は仏教をひどく儀式を偏重するものにしてしまいました。私たちは仏陀に親切ではありません。

質問:あなたは何が人を仏教徒にすると思いますか?

回答:仏教徒と呼ばれてはいないかもしれない人が、仏教徒の人よりも仏教徒であり得ます。仏教は、マインドフルネス集中洞察からできています。あなたがこれらのものを持っているなら、あなたは仏教徒です。そうでない場合は、あなたは仏教徒ではありません。あなたが人を見て、その人がマインドフルで、思いやりがあり、理解があり、洞察力を持ってることが分かると、あなたはその人が仏教徒であることを知ります。しかし、その人が尼僧だとしても、これらのエネルギー資質を持っていないなら、仏教徒の外見をしているだけで、仏教徒の中身は持っていません。

(解説)
ティク・ナット・ハンの教えは、正真正銘の仏陀の教えである、と私は本当に感じます。そしてまた、輪廻転生と過度な儀式は欺かれた仏教の2つの例である、と指摘するティク・ナット・ハンに私は同意します。チベット仏教は、所謂死亡時に微細な意識が体から離れる、と説いていることを私は知っています。そして驚くべきことに、ティク・ナット・ハンの弟子の一人(法師)ですら「仏陀は、私たち(意識)がこの体を離れる時、私たち(意識)は自分の行動の結果を私たち(意識)と一緒に連れて行くと言いました」、と記述していることも私は知っています。ティク・ナット・ハンが言う通り、それは欺かれた仏教です。体と意識は相互に依存し浸透しています。意識は常に体と一緒にいますから、体から離れることはできません。意識は体から離れて単独で存在することはできません。それが正真正銘の仏陀の教えです。

儀式については、「私たちは儀式をなくすべきである」、という仏陀の言葉に私は完全に同意します。そして、「仏教徒になるのは儀式によってではありません。仏教徒になるのは実践に全力を傾けることによってです。あなたが、ただ儀式を行ったからといって、悟りや解放を得ることはありません」、というティク・ナット・ハンの言葉に私は完全に同意します。「仏教は、マインドフルネス、集中、洞察からできています」、というティク・ナット・ハンの言葉はシンプルですが、非常に説得力があります。

(参考) 
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-40724856
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275

Friday, April 22, 2016

死後の生 (2)

次の「死後に生はあるか?」という質問に対する、ティク・ナット・ハンの回答を深くご視聴ください。


以下は抜粋です。

引用:
科学者たちは既に、生も死もないことを表明しました。何も創造されず、何も失われないのです。あるのは変容のみです。ですから、変容は可能であり、現実です。そして、誕生や死は現実ではありません。あなたが誕生や死と呼ぶものは変容でしかないのです。(中略)あなたが青空を見ると、あなたの見ていたはもう見当たりません。あなたはその雲が死んだと考えます。しかし、実際には、その雲はなどの形で、常に継続しています。ですから、誕生と死は表面的にしか見られていないのです。あなたが掘り下げ、深掘りするなら、誕生も死もありません(不生不死)。あるのは継続のみです。そして、あなたが継続、つまり不生不死の性質に触れた時、あなたはもはや死を恐れることはありません。

仏教徒だけが不生不死について語っているのではなく、科学もまた不生不死について語っています。両者は自分たちの研究成果を交換できます。それは非常に興味深いことです。これは、自分の不生不死の性質に触れることができるように、私たちがより深く人生を生きるための招待状です。そして、ティク・ナット・ハンの回答は、実践するための招待状でしかないことを私は知っています。私たちは、起こっていることに深く接することができるように集中して、よりマインドフルに人生を生きる必要があります。すると、不生不死という現実の本質に触れる機会を私たちは得ます。そして、それは仏教においては「涅槃」の用語で説明されています。涅槃とは不生不死のことです。

そして、キリスト教ではそれを「究極」、「」と呼ぶかもしれません。神は、不生不死という私たちの本質です。私たちは神を見つけに行く必要はありません。神は私たちの本質なのです。それはのようなものです。波は自分が誕生と死にさらされると信じています。そして、波が上昇して下降し始める度に、波は死を恐れます。波は死ぬことを恐れているのです。しかし、波が自分はであると実感したなら、もはや死を恐れはしません上昇する前、波は水です。下降する時、波は水です。そして、下降した後も、波は水であり続けます。死はありません。

ですから、波が瞑想し、自分は波であると同時に水でもあることを実感することが非常に重要です。そして、波が自分は水であることを知る時、もはや死ぬことを恐れはしません。波は上昇して素晴らしいと感じ、下降しても素晴らしい感じます。波には恐れがありませんそして、もまた同様です。雲は死ぬことを恐れていません雲は、自分が雲でなくなるなら、のような雲と同じ位美しい他のものになれることを知っています

ですから、波はを探しに行きません。波は今、ここで水ですので、水を探しに行く必要はありません。同じことが神についても当てはまります。私たちはを探す必要がありません。私たちが神なのです。神が私たちの本質なのです。あなたは涅槃を探しに行く必要はありません。涅槃は私たちの下地です。それが仏陀の教えです。私たちのかなりの人数が、そのことを実感できてきています。私たちは今、この瞬間を楽しみます。私たちは自分が死ぬのは不可能であることを知っています。
:引用終わり

(解説)
現象界の(人間を含む)全てのものにとっては、形を変えることによる継続しかありません。何も創造され得ず、何も破壊され得ません。そして、質量・エネルギー保存の法則 (E=mc2) に従って、エネルギーと質量の総和は生態系内において保存されます。それ故に、生と死は人間によって創造された概念に過ぎないのです。真実は、生まれることも死ぬこともないのです(不生不死)。あるのは継続のみです。全てのものは異なる形で永遠に継続するのです。 

ティク・ナット・ハンはこの究極の真理を深く理解しているのですが、一般的な真理(生と死の概念を使用することにより)を使用して、相互依存、即ち「空」に基づき、死後の生について説明しました。現象界(空間と時間内の外部世界)では、反対のペア(両極)は、独立した存在が空であり、相互に依存して同時発生しています。言い換えれば、両極は表裏一体なのです。ですから、死があるなら、生も同時にあります。それは、雲の死は雨の誕生であるというようなものです。雲と雨は両方共水です。雲と雨はただ異なった形で継続するだけなのです。水は決して死ぬことはなく、決して生まれることもありません。水は常に水です。

そして、同じことが人間にもまた言えます。私たちは、水、空気、土、太陽光のような全宇宙でできていますので、人間は常に全宇宙です。私たちが不生不死という究極の真理を理解したなら、全ての概念を投げ捨て、完全な悟りを開くことができます。一方、本体の世界(空間と時間のない内部世界)では、時空がありませんので何も存在することはできません。目覚めた意識(仏性または神性)のみが空間と時間を超越できますので、両方の世界を同時に生きることができるのです。

(参考)http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/notice-of-private-lessons-for-one-more.html
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42868476
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275
http://compassion5151.blogspot.jp/2015/09/blog-post_6.html
http://compassion5151.blogspot.jp/2015/09/blog-post_10.html

ティク・ナット・ハン

Thursday, April 21, 2016

死後の生 (1)

次の「死後に生はあるか?」という質問に対する、ティク・ナット・ハンの回答を深くご視聴ください。


以下は抜粋です。

引用:
は常にと同時にあります。(生は死の)前にあるだけでなく。そして、生は死と分離され得ません。生がある所には、死があります。死がある所には、生があります。

そして、これは少々瞑想を要します。仏教において、私たちは「相互依存」について話します。それは、あなたが自分だけでは存在できないことを意味します。あなたはもう一方の側と相互に依存する必要があります。それは、左と右のようなものです。もし、がないなら、は存在し得ません。もし、がないなら、は存在し得ません。からを取り除くことはできません。からを取り除くことはできません。(中略)左と右は一緒にいたいのです。なぜなら、他方なしでは、あなたは存在し得ないからです。それは非常に明白です。上と下のように。もし、がなければ、は存在し得ません。それが、仏教で私たちが「相互依存」と呼んでいるものです。双方が同時に存在しなければならないのです。

ですから、神が「あれ」と言うと、光は「えーと、私は待たねばなりません。神よ、私は待つ必要があります」と言いました。「でも、あなたは何を待っているのですか?」 「が一緒に顕現するのを私は待っているのです。なぜなら、光と闇相互依存しているからです。」すると、神は「は既に存在しています」と言いました。そこで、光は「そうであるなら、私()は既に存在しています」と言いました。

ですから、それは善と悪前と後こことあそこあなたと私についても言えます。あなたなしではは存在できません。蓮の花なしでは存在できません。がなければ、は存在し得ないのです。苦しみのないところに、幸せはありません。のないところに、はありません。

生物学者人体を観察する時、生と死は人体の中で同時に起こることを理解します。生と死は人体の中で同時に起こることを彼らは理解するのです。正にこの瞬間に、何千もの細胞が死んでいます。あなたがこんな風に引っ掻くと、多くの乾燥した細胞が下に落ちます。彼らは死んだのです。そして、多くの細胞が日常生活のあらゆる瞬間に死んでいます。あなたは超多忙ですので、あなたが死んでいることに気付きません。細胞が死ぬなら、あなたが死んでいるのです。あなたはまだ死ぬことはなく、死ぬには50年から70年後まで待たねばならない、と考えています。それは違います。死は将来いつかのことではなく、死は正に今、正にここにあります。ですから、死は今、ここで、あらゆる瞬間に起こっているのです。

そして、幾つかの細胞のがあるからこそ、他の細胞の誕生が可能なのです。ですから、多くの細胞が今、この瞬間に生まれています。そして、私たちは彼らのために誕生祝いを企画する時間がありません。ですから、事実は科学的に言うと、あなたは既に誕生と死が今、この瞬間に起こっているのを見ることができるということです。細胞のがあるからこそ、細胞の誕生が可能です。細胞の誕生が可能ですから、細胞のが可能なのです。生と死は、存在するために互いに寄り掛かっています。

ですから、あなたは瞬間毎に死んで、生まれることを経験しています。あなたがその瞬間(誕生日)にだけ、生まれたとは思わないでください。あなたの出生証明書に書かれたその瞬間は、単なる一つの瞬間というだけです。そして、それは最初の瞬間ではありません。その瞬間の前に、あなたが既にそこに存在していた瞬間がありました。あなたがあなたの母親の子宮の中で身ごもられる前に、あなたは別の形で、既にあなたの父親の中とあなたの母親の中にいたのです。ですから、誕生というものはなく、本当には始まりも終わりもありません

ですから、私たちが誕生と死はいつも同時であることを知った時、もはや死ぬことを恐れはしません。なぜなら、死の瞬間には、誕生もまたあるからです。誕生は死と共にやって来ます。そこで、死と誕生を分離することはできません。これは非常に深い瞑想です。あなたはあなたのだけで瞑想すべきではありません。あなたは、日常生活の中で生を観察する必要があります。すると、あなたは全てのものにおいて、生と死が相互に依存していることを理解します。木々、動物、天候、物質、エネルギー(等の全てにおいて)。
:引用終わり

(解説)
現象界の(人間を含む)全てのものにとっては、形を変えることによる継続しかありません。何も創造され得ず、何も破壊され得ません。そして、質量・エネルギー保存の法則 (E=mc2) に従って、エネルギーと質量の総和は生態系内において保存されます。それ故に、生と死は人間によって創造された概念に過ぎないのです。真実は、生まれることも死ぬこともないのです(不生不死)。あるのは継続のみです。全てのものは異なる形で永遠に継続するのです。 

ティク・ナット・ハンはこの究極の真理を深く理解しているのですが、一般的な真理(生と死の概念を使用することにより)を使用して、相互依存、即ち「空」に基づき、死後の生について説明しました。現象界(空間と時間内の外部世界)では、反対のペア(両極)は、独立した存在が空であり、相互に依存して同時発生しています。言い換えれば、両極は表裏一体なのです。ですから、死があるなら、生も同時にあります。それは、雲の死は雨の誕生であるというようなものです。雲と雨は両方共水です。雲と雨はただ異なった形で継続するだけなのです。水は決して死ぬことはなく、決して生まれることもありません。水は常に水です。

そして、同じことが人間にもまた言えます。私たちは、水、空気、土、太陽光のような全宇宙でできていますので、人間は常に全宇宙です。私たちが不生不死という究極の真理を理解したなら、全ての概念を投げ捨て、完全な悟りを開くことができます。一方、本体の世界(空間と時間のない内部世界)では、時空がありませんので何も存在することはできません。目覚めた意識(仏性または神性)のみが空間と時間を超越できますので、両方の世界を同時に生きることができるのです。

(参考)http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/notice-of-private-lessons-for-one-more.html
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42868476
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275
http://compassion5151.blogspot.jp/2015/09/blog-post_6.html
http://compassion5151.blogspot.jp/2015/09/blog-post_10.html

ティク・ナット・ハン

Tuesday, January 5, 2016

超能力

次のティク・ナット・ハンのビデオをご覧ください。


引用:
永久不滅の見方があります。永久不滅とは、あなたが永久不滅のを持っていることを意味します。あなたが死んだ後、魂は原形を保って別の体へ移り、それを繰り返します。それが永久不滅です。その対極は、あなたが死んだ後は何も残らないというものです。それがニヒリズム(虚無主義)です。そして、涅槃はこれら二つの見方、ニヒリズムと永久不滅の見方の絶滅です。人の一生においてさえ、あなたが10歳に成長すると、5歳だった頃とはもはや同じではありません。ですから、あなたは5歳でしたし、今は10歳です。あなたは同じ人でも、違う人でもありません。ですから、同じ及び違うという概念もまた超越されるべきなのです。

ですから、もしあなたがその種の光明を見いださないなら、仏教における転生を本当に理解することはできません。あなたは永久不滅の見方に捉われるかもしれません。すると、あなたは不滅の魂があるとの見方を持つ変人と何ら違いはありません。教えに照らして、全ての物は無常です。五蘊(体、感情、知覚、心行、意識)のどれも、二つの連続する瞬間において全く同じ状態に留まることはできません。しかし、何も失われはしません。仏教において、創造顕現を意味します。あなたは無から有になることはできません。ですから、深く見れば、創造とは本当は顕現の継続です。もし、あなたが今の形で顕現しないなら、その時は雲や雪と同様の方法で顕現します。(雲として顕現しない時は、雨や雪といった別の形で顕現するという趣旨)

ですから、それ(異なる形での顕現の継続)を理解するなら、あなたにもはや恐れはありません。それは既にあなたの超能力です。あなたに恐れがないなら、あなたは他の人たちとはかなり異なっています。なぜなら、私たちは自分の恐れ、死ぬことに対する恐れ、無になってしまう恐れにさらされているからです。しかし、あなたに恐れがなくなり、その深い智慧(異なる形での顕現の継続)があれば、あなたは超自然的な存在になります。あなたは、もはや人間ではありません。神は人間ではないことになっていますので、あなたはになる必要はないのです。ですから、仏陀が超能力を持っていると言うことは、それもまた真です。しかし、仏陀は超能力を持つために、神になる必要はありません。仏陀に必要なのは自由を持つことのみです。誤った見方からの自由、そして恐れからの自由

それは、生と死が波のようであるのと同じです。あなたは生と死の波に乗っており、恐れることなく生きます。それは素晴らしい超能力です。仏陀は弟子たちに奇跡を演じることを奨励しませんでした。最も偉大な奇跡は人々を教え、変容する奇跡であると、仏陀は言いました。それこそ、仏陀が毎日行っている奇跡です。
:引用終わり

(解説)
私たちは死ぬことはできず、所謂死の時には今の形での顕現を止めるだけです。私たちの崩壊した体は、水、空気、土(鉱物)、熱(エネルギー)のような様々な別の形で存在し続けます。そして、条件が十分に整うと、それらは新しい形で再び顕現します。また、各素粒子は、意識(潜在意識)へ包み込んでいます。そして、意識は新しい形に(包み込んだものを)開いています。ですから、私たちの心、精神もまた継続します。私たちがこの仕組みを理解する時、私たちに恐れはなくなります。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275

ティク・ナット・ハン

Monday, September 28, 2015

デヴィッド・ボーム (5)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (5)

アインシュタインは最終的に、全てのものは一つの場であり、全ての場が合併したものであるという場の理論の見解の方へ動きましたので、それは完全性への第一歩でした。それはわずかな一歩でしたが、それでもそれは始まりでした。

完全性はあなたがたどり着ける場所ではありません。完全性は生命全体への態度、または取り組み方のようなものです。それは一つの方法です。私たちが現実への可干渉的な取り組み方を持つことができるならば、現実は私たちに可干渉的に応答するでしょう。

しかし、自然は途方もなく、私たちの地球に対する考え方に影響を受けてきました。自然は今、破壊され続けています。私たちがどのように考えていたかによって、影響を受けなかったものは地球上にはほとんど残されていません。

私たちが可干渉的な取り組み方を持つことができるなら、意図しない結果ではなく、むしろ意図する結果を生み出すでしょう。それが最初の大きな変化です。その後、私たちはよりきちんとし、調和がとれ、より幸せになるでしょう。私たちはそこに全てのことを集約できると思います。しかし、不幸の主な根源は、私たちが可干渉的でないことであり、それ故に、私たちは自分が本当に欲さない結果を生み出しているのであり、本当に欲さない結果を生み出し続けながら、その結果を克服しようとしているのです。」

デヴィッド・ボーム; 1990年、アムステルダム
「変化する経済において芸術が科学と精神性に出会う」会議にて

「デヴィッド・ジョセフ・ボーム(1917 - 1992)はアメリカの理論物理学者であり、量子論、心の哲学、神経心理学に革新的かつ伝統を破る着想を与えた。彼は20世紀の最も顕著な理論物理学者の一人であるとみなされている。」

(ウィキペディア)

アインシュタインもデヴィッド・ボームも全てのものは一つであるという結論に到達しました。言い換えると、全ての生命は一つであり、現実は切り刻むことができない完全性を持つということです。しかしながら、(エゴの)人間は、分割してはならないものを考えや概念や言葉で無理やり切り刻みますので、現実の本質に触れることができません。全てのものは相互に依存し浸透し合っていますので、独立して存在することはできないにも拘わらず、無理やり分離し独立させてしまっています。もちろんその結果、無意識に自己破壊を続け、実は自分が創造した色々な問題の克服に追われているという、正にマッチポンプの愚かなパターンにはまっています。仏陀は、「空」で独立した存在の不在を説き、独立した自己であるエゴを手放すように助言しました。その手法として仏陀が提案したのが、意識(本当の自分)を今ここに呼び戻して思考(エゴ)を停止し、心身を結合するマインドフルネスです。尚、完全な悟りには、更に概念の絶滅が不可欠であり、そのためにはあるがままの現実の本質に触れるための集中と洞察が必要です。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(おわり)

(参考)
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Sunday, September 27, 2015

デヴィッド・ボーム (4)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (4)

完全性は態度というか一つの取り組み方ですが、相対性理論と量子論によって科学的な理解を付与され得ます。私たちが望むなら、世界を一つの全体とみなすことができます。

意識は真に、この内在的秩序の最も直接的な経験です。あなたはもっともっと細かい意識の網について考えるかもしれませんし、私たちは内在的秩序のもっともっと細かい側面をとらえることについて考えるかもしれません。意識には暗黙の知性、広がる知性のようなものがあると私は思います。知性の源は必ずしも脳内にないことは分かりますよね。究極の源のことです。しかし、知性の源は全体の中に包み込まれているのです。さて、あなたがそれを神と呼びたいものについての質問は、あなたが(神という)言葉によって何を意味するかに依ることは分かりますよね。なぜなら、個人的な神として(神という)言葉を受け止めると、何らかの方法で(神という)言葉を制限してしまうかもしれないからです。

世界観の主要な源として、科学は宗教に取って代わり始めたと私は思います。それ故に、科学が断片的な世界観を採るなら、科学は意識に重大な(悪)影響を持つことになります。

人々が科学から作るものは何でも科学であり、科学はいつの時代も変化してきました。そして今、科学は2~3百年前のものと異なっており、再び異なる可能性があります。科学は必ずしも測定を伴わなければならないという固有の理由はありません。それは過去2~3世紀にわたって起こったもう一つの歴史的な発展です。測定は完全に偶発的であり、絶対に必要ではありません。

(内在的秩序を理解できれば、意識は体の中(各素粒子とエネルギーの内部)に包み込まれており、その意識は私たちが見たり知っていることの全てを包み込んでいることが分かります。そして、全体が包み込んでいる意識の中に「神」と呼ぶこともできる知性の源が包み込まれているとデヴィッド・ボームは明言しています。これは、仏陀が全ての物には既に仏性が宿っていると説いたことと重なります。また、分割不可能な一つの全体である世界を切り刻む断片的な世界観にデヴィッド・ボームは警鐘を鳴らしています。これも、分離による二元性が、あるがままの現実の本質に触れることを妨げるので、非二元性へ至るために「空」の智慧を説いた仏陀の教えと重なります。そして、断片的な世界観や二元性の根源は、人間(エゴ)がでっち上げた考えや概念なのです。どうやら、仏陀の教えが全て科学的に解明される日が来るのは、間違いない予感がします。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
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Albert Einstein's theory of general relativity in 1915

Saturday, September 26, 2015

デヴィッド・ボーム (3)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (3)

私は原罪のようなものがあるとは思いません。私は原罪のようなものは、私たちの社会の成長と共に一層発展したのだと思います。狩猟・採集社会の人々が、全員そんなに競争心旺盛であったという証拠はありません。しかし、あなた方が社会をより大きくし、あなた方がより多くの組織を持つにつれ、あなた方はトップに到達する必要があり、底辺の人々が苦しむことになります。自然と、競争する時勢の流れがありました。競争する欲望は弱さというより、間違いです。

ですから、まず最初に私たちがしなければならないことは、長い目で見れば、何千年もかけて発展してきた私たちの思考法を見ることです。私は、競争が人類の原始の思考法だったとは全く思いません。しかし、多くの複雑な理由から競争が起こったのだと思います。

さて、それは、人々が参加する必要があること、協調する努力をする必要があること、対話、真の対話をする必要があることを意味します。その対話では、単に意見を交換するのではなく、抵抗することなく、実際に他人の見方に深く耳を傾けるのです。

もし、私たちが自分自身の意見にしがみつき、他人に抵抗するなら、対話を行うことはできません。それは、私たちが他人を受け容れるべきであるという意味ではありませんが、他人をつまみ出すことなく、他人を抑圧することなく、全ての意見を見て、私たちの前で、あるがままに、全ての意見を保留しておくことができるようになる必要があります。

(競争は分離や差別を引き起こしますので、全ての煩悩の根源であり、苦しみの根本原因です。競争に於いては勝者は一人もおらず、全員が敗者になります。一時的に勝者になったとしても、その地位を維持するために無理な努力を強いられ、必ず狙われますのでいつかは敗者に転落するからです。従って、競争とは自己破壊であると言っても過言ではありません。自分が勝つために戦うのは、エゴのすることです。原始時代には競争することなく、協力し合って協調していたことでしょう。しかし、社会の拡大に伴って組織を率いるリーダーが登場し、力(暴力)で富や権力や地位を独占していったのでしょう。相互依存の性質を持つ全てのものが生き抜く道は協調しかないにも拘わらず、エゴの人間は真逆の分離を引き起こす競争を選択したのです。自他を分離してしまうと対立が生じますが、真に対立を解決するには対話が不可欠です。力(暴力)で敵をねじ伏せようとしても対立が深まるだけです。真の解決にはどうしても相互の深い傾聴を通した和解が必要です。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
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Best friends Photo by The Ugly Daughter

Friday, September 25, 2015

デヴィッド・ボーム (2)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (2)

汚染、即ち生態環境のような問題を見てみましょう。生態環境、それ自体は問題でないことは分かりますよね。生態環境は、それ自体で完璧に上手く動作しています。私たちのせいです、そうでしょう?私たちが生態環境を分割するといった特定の方法で考えており、各人が自分独自のことをしているので、それは問題なのです。

従って、生態学的問題は思考に起因しています、そうでしょう?しかし、思考は、そこにあるものは問題だと考え、私はそれを解決しなければなりません。しかし、同時に思考は問題を作る全てのことをやっており、それを試し克服するための別の一連の活動を行おうとしていますので、それは意味を成していません。思考は、生態学的問題、国家的問題、その他あらゆる問題を作っていることをするのを止めないことは分かりますよね。

本当に、地球は一家族ですが、私たちはそのように取り扱っていません。ですから、それが経済的意味における第一歩であり、地球は一家族であり依存する全てであると言うことです。全てで一つなのが分かりますよね。

さて、内在的秩序は私たちがそのこと、全てのものが全てのものを包み込んでいること、単に誰もが誰もに依存しているだけではなく、深い意味では実際に誰もが誰もであることを理解するのに役立ちます。全ての私たちの物質は地球から来ており、地球へと戻って行きますので、私たちは地球であることが分かりますよね。私が意味することは、地球は私たちを取り巻くただの環境であると言うのは間違っているということです。それは、胃をその環境の一部として見なしている脳のようなものです。

英語の思いやりという単語は、一緒に感じる(苦しむ?)という意味であり、人々が一緒に同じ気持ちを持っているなら、お互いに責任があり、それであなたは思いやりを持ちます。

(全ての問題の根源は人間の考え、思考です。自分勝手なことをするから問題が生じるのです。思考はエゴがする行動ですので、問題を解決しなければならないと考えながらも、新たな問題を作り続けていることに気付けません。自分のことしか考えていないからです。従って、考えるとは自分勝手なことを考えるという意味ですので、問題を解決することは不可能です。真に問題を解決したいなら、考えてはいけないのです。地球は一家だと口では言っている人が正反対の行動をしているのは、当人がエゴだからであり、騙されてはいけません。内在的秩序は、全ての物は他の全ての物を包み込んでいるという理論です。例えば、人間が食べる物は人間以外の水、空気、土、太陽光という全宇宙の要素からできていますので、人間は体内に全宇宙を包み込んでおり、人間の体が分解すると各要素が全宇宙へ戻って行きますので、全宇宙が人間を包み込んでいることになります。従って、地球とは人間そのものですので、外部の環境ではありません。環境を汚染することは自分を汚染していることだと気付いた瞬間、自分勝手なエゴの行動は取れなくなるのです。)

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Thursday, September 24, 2015

デヴィッド・ボーム (1)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (1)

「厄介なことはこの断片化だと私は思います。(中略)全ての思考は断片に分割されています。この国家、この国、この業界、この職業などのように。(中略)そして、これらは問題に上手く対処することができません。思考は何にも影響を与えることなく、ただ物事のあるがままをあなたに伝えることを求める方法で伝統的に発展してきたため、このようなことが起こります。それ故に、人々は自分が問題を創造しており、どうやらそれを解決しようとしているらしいということを理解することができません。(中略)分裂していない完全性は、全生命への態度、またはアプローチの一種です。私たちが現実に対して可干渉的な(波動が互いに干渉しあう性質をもつ)アプローチを持つことができるならば、現実は私たちに可干渉的に応答します。」

以下は、1990年、アムステルダムでのドキュメンタリー「変化する経済において芸術が科学と精神性に出会う」で取り上げられた、ビデオ「完全性と断片化」からの転写であり、デヴィッド・ボームのプレゼンテーションからの一部抜粋です。

「私たちは外面的に関連しているだけでなく、内面的に全てと関連しています。意識は全体との内部の関係であり、私たちは全体から摂り入れ、全体へ行動します。私たちが摂り入れるものが何であろうとも、私たちが何であるかを基本的に決定します。

まず第一に、厄介なことはこの断片化だと私は思います。全ての人、全ての思考が断片に分割されています。この国家、この国、この業界、この職業などのように。(中略)そして、これらは問題に上手く対処することができません。それに口を差しはさむことは非常に困難です。

しかし、思考は何にも影響を与えることなく、ただ物事のあるがままをあなたに伝えることを求める方法で伝統的に発展してきたため、このようなことが起こります。それ故に、人々は自分が問題を創造しており、どうやらそれを解決しようとしているらしいということを理解することができません。

(デヴィッド・ボームが指摘する断片化という厄介な問題とは、分裂していない完全性である現実を思考が切り刻んでいることから発生する問題のことです。元々一つである分離されていない完全な地球という生命を、人間が思考によって無理やり分離したことから、あらゆる対立や紛争が生じています。簡単に言うと、「自他の分離」が引き起こす問題です。そして、思考とは、言い換えると「概念」、「言葉」のことであり、これらは全て「区別」、「分離」、「差別」するために人間が創造したものなのです。)

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
https://creativesystemsthinking.wordpress.com/2014/10/01/wholeness-a-coherent-approach-to-reality-david-bohm/

地球=分裂していない完全性