Monday, August 8, 2016

「こころの狭い犬?」

「ほぼ日刊イトイ新聞」8/7号「今日のダーリン」の記事をご一読ください。 http://www.1101.com/home.html 
引用:
・うちの犬のことを、ぼくは冗談めかして
 「こころの狭い犬」と紹介している。
 とにかく、他の犬や、他のどうぶつたちのことを、
 なんだか知らないけど「許さない」のだ。
 強そうな犬のことは無視して見ないようにするし、
 強いとも思えないどうぶつには怒って見せる。
 テレビの画面の生きものたちに対しても、因縁をつける。
 家族を守ろうとする、忠実な犬とも言えるかもしれないが
 寛容さというものがまったくない。
 「偏狭」とか「狭量」と言うとちょっと気の毒なので、
 「こころの狭い」という表現でまとめている。
 
 「こころの狭い」という大きな欠点のある犬のことを、
 ぼくは嫌っているのかといえば、嫌ってはいない。
 むしろ、「こころが狭い」ことも含めて、好きなのだ。
 
 そのことについて、ふと思った。
 「こころが狭い」は、犬を嫌う理由にならないのか。
 では「こころの狭い人」の場合はどうなのだろうか?
 なかなかほめられない性格だとは思うけれど、
 「こころの狭い人」という理由で嫌うこともなさそうだ。
 そういうところがイヤだね、とか言いつつ、
 ぼくは、きっと彼(彼女)とつきあっていることだろう。
 そう気づいて、実はびっくりした。
 「こころが狭い」ことは、あんまり大事じゃないのか。
 「こころの広い」は、とても尊敬できることではあるが、
 偏狭や狭量と言われるようなことは、ま、いいのか‥‥。
 そう思ってさらに考えてみると、ぼくの友人や知人に、
 「こころの狭い人」も、けっこういる。
 そうか、「こころが狭い」のもオッケーなんだ、ぼくは。
 へーえ、とさらに考える。

 じゃ、なにがダメなのだろうか。
 盗癖があるとか、人を殴るとか、平気でウソをつくとか、
 そんな悪いことでも、もしかしたら場合によっては、
 「だけど嫌いじゃない」になる可能性もなくはなさそう。
 ドラマのなかには、そういう友人とかも、出てくるよね。
 なんだか、問題はそういうことでもないのかもしれない。
 じゃ、ほんとに、なんなんだろうなぁと、
 まだ「考え中」のままなのであります。
:引用おわり

以下は、私見です。

糸井さん、ちょっと記事の内容が気になりましたので、感想を送ります。お宅の犬のことを、「こころの狭い犬」と紹介されているようですが、犬も含めて全ての動物は「狭いこころ」を持つことができるのでしょうか?わたしの理解は、「狭いこころを持てるのは人間だけ」です。

なぜなら、人間以外の全ての動物は考えない(考えることができない)からです。その証拠に好き嫌いと言う感情はあっても、差別することはありません。つまり、根に持つことは無いのです。ですから、常に「今、ここで」生きていて、過去や未来に彷徨うことはありません。考えないということは、常にマインドフルということです。

仏教では、コンタクト⇒アテンション⇒感情⇒知覚(脳内の概念の連続)⇒動機⇒行動、という流れで人間の心と体がつながっていると説明していますが、人間以外の全ての動物は知覚(考えること)と動機が欠如している、と私は理解しています。簡単に言えば、悪意はない(持てない)ということです。したがって、「狭いこころ」は持てないに違いありません。

もっと深く観ると、自分が見る世界(現象)は自分の心の投影ですから、「こころの狭い犬」ではなくて、本当は「こころの狭い私(自分)」なのかもしれません。犬であろうが、友人や知人であろうが、相手の中に「狭いこころ」を見たのなら、それは自分自身のことである可能性が大です。

「狭いこころ」とは、自他を分離するエゴ(独立した自己)の思考のことではありませんか?思考は分離や差別を引き起こしますので、恐れや怒りや嫉妬や絶望といった煩悩が生じ、苦しむことになります。ですから、仏陀は、苦しみの根源であるエゴの思考を停止することによって、本当の自分(目覚めた意識)を呼び起こす方法を説いたのでしょう。

『「こころが狭い」のもオッケーなんだ、ぼくは。へーえ、とさらに考える。』とありますが、考えてはいけないのです。「考えない」ことが正解です。その代わりに、洞察(インサイト)を得ればいいのです。考えなければ、洞察は自動的に湧いてきます。目覚めていながら、深い熟睡状態になるのがコツです。実は、にはそれが無意識にできています。考えていないからです。人間の方が動物から学ばなければなりません。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

糸井さんちの犬