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Wednesday, November 9, 2016

過去を修正し修復する方法

次のティク・ナット・ハンの法話をポッドキャストより、55:50 ~ 1:03:37 迄深く傾聴してください。
http://tnhaudio.org/2010/04/20/your-heart-is-like-a-flower/
以下は抜粋です。

引用:
すると、私たちはより良い、より美しい継続を確実にすることができます。それは今、私たちの手中にあります。マインドフルネスの実践によって、私たちはより良い将来を確実にするために、私たちの行動を浄化し始めることができます。

(鐘の音)

しかし、昨日、私が憎しみや差別の思考を既に生み出してしまったとしたらどうでしょうか?私はそれを持ち続けたくはありません。もし、昨日、私が私の父や友人に非常に意地悪なことを言ったとしたらどうでしょうか?私は後悔していますが、もう既にそれを言ってしまったのです。私はもう既にそれをしてしまったのです。

私たちが過去に創造した誤った考えや誤った発言を修復するために、何かできるでしょうか?その答えは「はい」、私たちは何かをできます。昨日、あなたは親切でないことを彼女に言ったかもしれません。今日、あなたはそれが正しい発言ではないことに気付き、修復したいと思い、今、この瞬間にそれを足止めします。あなたは正しい発言を実践したいです。

あなたは息を吸い込み、息を吐きます。そして、あなたは電話の受話器を持ち上げるか、コンピュータの電源を入れて、ごめんなさいと彼女に告げるために、あなたは本当は彼女に幸せになって欲しいということを彼女に告げるために、そのようなことを言ってしまったことを後悔していることを彼女に告げるために手紙を書いてメールします。今、この瞬間に、あなたはそれをできます。なぜなら、あなたが和解の考え、慈しみの考えを生み出すやいなや、その思考があなたを癒し相手を癒し始めるからです。

すると、昨日あなたがしたこと、昨日あなたが言ったこと、あなたのカルマ(行動)は、今日の行動によって変容されるでしょう。今日の行動、今日の思考は、昨日の行動と思考に追いつき抱きしめ変容します仏陀は、「全ては心から来る」と言いました。心が変わると、全ては変わります。

あなたの祖母が生きていた間に、あなたが彼女に良くないことを言ったとしましょう。今、あなたは彼女に、「ごめん」と言いたいです。しかし、祖母はもはやおらず、「おばあちゃん、ごめん。私は意地悪なことをおばあちゃんに言ってしまいました。私は愚かでした。私はマインドフルではありませんでした。私はそのようなことを言おうとしたのではありませんでした」と、あなたは言う機会がありません。あなたが手紙を送ったり、電話したくても、祖母はもう生きていないのです。

あなたは過去でさえも修正し、修復することができますので、マインドフルネスの実践は素晴らしいです。座禅を組んで、深く観て、マインドフルに呼吸してください。それによって、あなたの祖母はあなたの体の細胞の一つ一つにまだ生きているという洞察をあなたは得ます。あなたの祖母は、まだいるのです。それから、あなたは祖母のカルマの一部なのです。(笑)あなたは祖母の継続です。あなたが何らかの形で祖母の継続であることは、非常に明白です。

ですから、あなたは次のように実践できます。

息を吸って、おばあちゃん、私は私の体の細胞の一つ一つに、あなたを見ます。
息を吐いて、おばあちゃん、私はあなたに微笑みます。

すると、あなたの祖母に今、ここで向かい会えます。あなたの祖母はもはやいないと考えることは、誤った考えです。それは誤った考えなのです。あなたの祖母がいたのは過去のことと考えるのは、誤った考えです。あなたの祖母はあなたの中と周りに常に存在しています。そして、あなたはいつでもあなたの祖母に、「おばあちゃん、ごめん。私は将来、もうあのようなことは決して言わないと約束します」と、話かけることができます。すると、あなたの祖母があなたに微笑んでいるのを、あなたは見ることができます。すると、あなたは癒されます。これが実践の素晴らしいところです。今、この瞬間に、あなたは過去を癒すことができ、未来を創造できるのです。 

ですから、今、ここで取られた行動が、過去を修正し、訂正し、変容することができ、現在と未来を変容することができるのです。ですから、仏陀の教えにおいては、(正しく)考えることだけで、(正しく)発言することだけで、(正しく)行動することだけで、より良い未来と美しい未来を確実にすることが可能なのであり、それを行う支配権はあなたが握っています。あなたの自由意志が可能なのです。そして、そうすることは、良い環境において、サンガにおいて、より容易になります。

(解説)
上記のティク・ナット・ハンの法話は、自分自身の内面において過去を修正し修復するためです。私たちの相手との問題を修復することとは、何の関係もありません。私たち自身の問題は、マインドフルネスの実践を通して解決することができます。ですから、私たちはストレスから解放されます。これはメリットです。しかしながら、私たちの相手が同じことを実践しないなら、相手の問題は解決できません。すると、両者の間の問題は残ります両者が過去を修正し修復する場合にのみ、両者間の関係を復元することができるのです。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Thích Nhất Hạnh

Friday, September 2, 2016

輪廻転生とカルマ

次の「輪廻転生とカルマ」に関する質問に対するタイ・ファップ・ダンの回答ビデオを深くご覧ください。


以下は、ビデオから抜粋したキー・フレーズです。

< キー・フレーズ >

通常、輪廻転生とはあなたが死んで、生まれ変わることを意味すると、私たちは考えます。しかし、実際には輪廻転生は、あなたの人生の全ての瞬間にあります。あなたの体が死に、あなたの体が生まれ変わるということですよね?十万の細胞が死に、十万の細胞が再び生まれています。ですから、私たちは自分の生涯の全ての瞬間に転生しています。これはについてのことです。私たちのもまた、私たちの心の活動は死んで、その後、再び生まれます。

カルマ(因果)の法則によって、あなたが鐘の音に耳を傾け、本当に息を吸って吐く実践をしている時、鐘の音は「原因」であり、息を吸って吐くことは「実践」であり、平和と幸福をもたらすことは「結果」です。ですから、因果の法則は、私たちの生活の全ての瞬間に起きています。私たちがその環境の中で起こっていることに関係することが行動(カルマ、業、実践)です。

ですから、人生の全てのことは、ただ因果の法則に従って進みます。そして、輪廻転生は、あなたが死んで、生まれ変わることを意味するのではありません。しかし、輪廻転生はあなたの生涯の全ての瞬間です。(個体としての)死の瞬間は、単に多くの(細胞の)死の瞬間の一つです。ですから、私たちがこのように理解するなら、無常、無我、因果の法則の性質について非常にはっきりと理解します。どのような結果が生じるかは、あなたがどのような人生を送ったかに依ります。

プラム・ビレッジにおいて、ティク・ナット・ハンはこの言葉(輪廻転生)を使いませんが、実際には本質的に(輪廻転生は)たくさんあり​​ます。輪廻転生、カルマ(因果)の法則は、常にあります。しかし、ティク・ナット・ハンは現実の言葉にはしません。

(解説)
タイ・ファップ・ダンは、「縁起(相互に依存して共同発生)」、即ち歴史的次元(現象界)における究極の真理に従い、生と死の概念を用いて輪廻転生を説明したと、私は理解しています。タイ・ファップ・ダンはなぜ加えて、究極の次元(本体の世界)における究極の真理に従って回答しなかったのかと、私は不思議に感じます。生と死は単なる概念です。真実は不生不死です。質量・エネルギー保存の法則に従って、何も生まれる(創造される)ことはできず、死ぬ(破壊される)こともできません。ですから、異なる形での継続があるだけです。もし、輪廻転生が、死亡時に魂が体から離れて、新しい体に入ることを意味するのであれば、その輪廻転生もまた単なる概念です。ティク・ナット・ハンが言う通り、カルマ(行動、業)だけが真の輪廻転生かもしれません。

そして、ティク・ナット・ハンが輪廻転生とカルマの言葉を使わない理由は、チベット仏教のような欺かれた仏教を回避するためであると、私は理解しています。欺かれた仏教は、「死亡時に魂が体から離れる」と説明しています。しかし、真実は、「心と体はいつも一緒」です。

タイ・ファップ・ダン

Tuesday, July 26, 2016

自分の行動が私たちです。

次の行動(カルマ)についてのティク・ナット・ハンの言葉を、深くご一読ください。
https://www.facebook.com/mindfulnessbell/posts/1075397465885157

「私たちが生み出す全ての思考(考え)、全ての言葉、私たちがする全ての肉体的行為は、決して死にません。何も死にません。これらの行動は常に継続します。それがあなたの継続です。この肉体だけが自分である、とあなたは考えます。それは正見(正しい見方)ではありません。あなたは、はるかにこの体以上のものです。あなたは、あなたの行動です。私が考えること、私が言うこと、私がすることは、私の継続であり、結果をもたらします。そして、その結果が美しいか否かは、完全に行動の質に依ります。 」
– ティク・ナット・ハン、「相互依存、四聖諦、正見」より"

(解説)
私たちは、自分の肉体的行動、口頭による行動、精神的行動(カルマ)を通して、私たちの貯蔵意識(阿頼耶識)に心行(精神形成物)の種を播く、乃至は種を植えます。そして、その種子が水やりをされる、乃至は触れられると、私たちの心の意識(顕在意識)の中に心行(精神形成物)として顕現します。ですから、私たちの行動(カルマ)は決して死ぬことはなく、常に継続します。それ故に、全ての行動(カルマ)は私たちの継続なのです。これが真の輪廻転生であると言えるのかもしれません。私たちがすべきことは、マインドフルネスを通して健全な種子への選択的水やり、及び私たちの心行(精神形成物)を抱きしめ深く観ることを通して根本原因を理解し、不健全な種子を健全な種子へ変容することです。

相互依存、四聖諦、正見に関する次のティク・ナット・ハンの法話概要を、深くご一読ください。
https://drive.google.com/file/d/0B_vcianSBGpHOVV0eXU3b1VNWnM/view
以下は抜粋です。

「親愛なる友よ、ニュートンに代表される古典科学においては、物は独立しています。種子は植物の外部にあり、植物は種子の外部にあります。しかし、量子物理学においては、私たちは物をそうではなく見始めています。物は、もはやそれぞれの外部にあるのではなく、実際にはそれぞれの中にあるのです。」

(解説)
種子目覚めた意識に例えられ、植物に例えられている、と私は理解しています。デヴィッド・ボームは「内在的秩序、即ち包み込まれた秩序は、外在的秩序、即ち開かれた秩序(独立した全てのもの)へ(包み込んだものを)開いている。」[外在的秩序、即ち開かれた秩序(独立した全てのもの)は、内在的秩序、即ち包み込まれた秩序へ包み込んでいる。]、と言いました。そして、内在的秩序本体の世界(究極の次元)における目覚めた意識を意味し、外在的秩序現象界(歴史的次元)における体を意味する、と私は理解しています。別の言葉では、デヴィッド・ボームは「全てのものは、内部で全てのものと結び付いている。全てのものは、全てのものを含んでいる」、と言いました。デヴィッド・ボームはまた、さて、内在的(包み込まれた)秩序は、私たちが全てのものは全ての人へ包み込んでいるということを理解するのに役立つだろう。それは、単に全てのものが全ての人に依存しているというだけではなく、深い意味では実際に全ての人が全ての人であるということである。よく見て、私たちを構成する全ての物質は地球からやって来て地球へと戻るのだから、私たちは地球そのものだ、とも言いました。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-62010528

Thích Nhất Hạnh

Saturday, July 16, 2016

輪廻、転生、継続 +α

次のティク・ナット・ハンの法話ビデオを深くご覧ください。


以下は、私が貴重と感じる抜粋です。

(1:00:23~)
ですから、「無常」の洞察「無我」の洞察は、裁判官、政治家などを含む、全ての人を助けることができます。永遠に変わらないでいられるものは何もありません。2つの連続した瞬間の間でさえもそうです。

最初に、鐘の音を聴くための別の詩がありました。

  「私は聴く。私は聴く。この素晴らしい音は、私を私の本当の自分へ連れ戻してくれる。」 
 (私 = エゴ、即ち独立した(自性)自己、本当の自分 = 独立していない(無自性)自己)

しかし、多くの人は、「自己」という言葉を理解していませんでした。仏教は、「自己」の存在を説いておらず、認めていません。なぜあなたは、「私は聴く。私は聴く。この素晴らしい音は、私を私の本当の自分へ連れ戻してくれる」と、言うのでしょうか?もし、私たちが独断的であってはならないのなら、自己について話せる、と私は思います。自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外の要素のみからできていることを私たちが理解しているならば。自己(エゴ)があるなら、その自己(エゴ)を(本当の自分と)同系交配させてください。すると、その自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外の要素のみからできていることになります。ですから、自己(エゴ)は、自己(エゴ)以外(無我)に等しいのです。ですから、私たちは言葉に捕捉されてはなりません。自己(エゴ)は存在しない(無我)と言うことは、正しいです。しかし、あなたが自己(エゴ)が自己(エゴ)以外の要素からできていることを理解しているなら自己(エゴ)は存在すると言うこともまた、正しいです(エゴはエゴ以外の要素、即ち無我に他ならないことを理解できているから)。理解できますか?ですから、あなたは争う必要はありません。仏教は非常に寛容です。もし、あなたが寛容でないなら、心を開いてないなら、あなたは仏教徒ではありません。自分だけが真理を手にしていると主張してはいけません。

(1:09:08
ですから、物事は常に変化しており、新しい形をとっています。それが輪廻(生まれ変わり)です。それが転生です。そうすると、あなたが生まれ変わるために、継続されるために、この体の崩壊まで待つ必要はないのです。(中略)

ですから、もし、あなたがチベット仏教の研究生なら、あなたの師の転生を探しに行くのに、師が死ぬまで待つ必要はありません。師はもう既に周囲に存在しています。師は多分、あなたの中にいます。そうすると、あなたの師が存命中に、あなたは師を識別することができます。師がまだ師の現在の体で生きている間に、師の継続をあなたは特定することができます。(中略)

ですから、私たちは自分自身を別の見方で見ることを学ぶ必要があります。私たちは自分自身を、このだけ、この気持ち感情知覚心行(精神形成物)だけとして識別すべきではありません。毎日あなたは、多くの思考発言行動を生み出します。そして、これら(カルマ、業)があなたを継続するのです。(中略)

が常にとなり、となり、となり、お茶となり、あなたのアイスクリームとなって継続するように、あなたは常にあなたのカルマ(業、行動)となって継続します。(中略)

生と死は、全ての瞬間に起こっています。正にこの瞬間に、数百万もの細胞が体内で死んでいます。それは、起こっています。死は後のことだとは考えないでください。死は、あなたが80歳か90歳になった時のことだろうと。いいえ、そうではありません。死は、正にこの瞬間に起きているのです。あなたは今、ここで死んでいる最中です。

なぜ、あなたは死ぬことをそんなに恐れているのですか?なぜなら、あなたは今、あらゆる瞬間に死んでいるからです。他の多くの細胞が生まれるように、多くの細胞が死んでいるのです。そして、この瞬間に、あなたは生まれています。あなたにはひっきりなしに誕生祝いがあり、毎回幸せな瞬間を過ごします。

私たちは超多忙です。私たちの細胞の葬式を設定する時間がありません。私たちの新しい細胞の誕生を祝う時間がありません。誕生と死はいつも一緒です。 一方がなければ、他方はあり得ません。誕生は死と四六時中行動を共にします。(中略)

ですから、あなたは日常生活のあらゆる瞬間に生まれ変わっています。そして、瞑想によってあなたは自分の転生を理解することができます。あなたが思考を生み出すたびに、良くも悪くも生まれ変わっています。そして、全ての思考、全ての発言、全ての行動には私たちの署名がありますので、私たちは自分の行動に責任があります。あなたは(心の)であり、あなたには名前があります。

(1:24:52)
あなたが腕のいい実践者なら、吸う一息だけで、あなたは苦痛を伴う感情喜びへと変容できます。マインドフルな吸う一息が苦痛を伴う感情に、苦しみに(根本原因を解明するための)多くの光明を投じることができます。

(解説)
ティク・ナット・ハンが指摘した通り、チベット仏教の理解では、転生は死後に起こらねばなりませんので、私たちはチベット仏教に注意する必要があります。彼らは、微細な意識が死後に体を離れると信じているのです。

2つのバージョンの自己があることを、私たちは理解する必要があります。一つは、エゴ = 独立した(自性)自己であり、もう一つは、本当の自分 = 独立していない(無自性)自己、即ち目覚めた意識です。悟りや目覚めとは、エゴから目覚めた意識への自己変容を意味します。

ティク・ナット・ハンは、正しい思考(正思惟)について説明しました。私はそれが何を意味するかを理解しています。しかし、「思考」という言葉は、非常に紛らわしいものです。なぜなら、全ての思考が煩悩苦しみをもたらす「分離」を引き起こすからです。ですから、全ての思考は誤った思考であり非思考(考えないこと)が正しい思考なのです。この意味で、誤解を避けるためには、「洞察を得る」と言う方が「正しい思考」と言うよりもはるかに優れています。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275
http://www.slideshare.net/compassion5151/3-46874436

ティク・ナット・ハン

Friday, June 10, 2016

欺かれた仏教(輪廻転生と儀式)

次のティク・ナット・ハンとのインタビュー記事をご一読ください。http://www.lionsroar.com/be-beautiful-be-yourself-january-2012/

以下は輪廻転生と儀式に関する部分の抜粋です。

引用:
質問:仏教徒になるには、輪廻転生を信じる必要がありますか?

回答:輪廻転生は、あなたの体から出て行き、別の体内へ入る魂が存在することを意味します。それは仏教において大変人気がありますが、継続についての非常に誤った概念です。もし、体に生息し、体が崩壊する時に体から出て行き別の形(体)を得る自我(エゴ)があるとあなたが考えるなら、それは仏教ではありません。

あなたが人間を観てみると、五蘊、即ち(人間を構成する)要素である形(体)感情知覚心行(精神形成物)意識を理解します。これら五蘊の外には、魂も我(エゴ)もありません。ですから、(集合していた)5つの要素が解散(溶解)へ向かう時、あなたがあなたの一生の間に行ったカルマ行動が、あなたの継続になります。あなたがしたことや考えたことは、エネルギーとして依然として存在します。あなたが継続するのに、魂、即ち自我(エゴ)は必要ありません。

それはのようなものです。雲が存在しない時でさえ、雲はとして常に継続しています。雲は、継続するためにを持つ必要はありません。始まりも終わりもありません。あなたは、継続するためにこの体が完全に溶解するまで待つ必要はありません。あなたは一瞬一瞬継続しているのです。私が数百人に私のエネルギー伝送すると仮定しましょう。そうすると、彼らは私を継続(継承)します。あなたが彼らを見るなら、(彼らの中に)私を見る、というか、あなたは私を見たのです。もし、あなたが、[自分を指さして]私はこの肉体でしかないと思うなら、その場合あなたは私を見なかったのです。しかし、あなたが私の演説や私の行動の中に私を見る時、あなたはそれらが私を継続していることを理解します。あなたが私の弟子生徒友人を見る時、あなたは私の継続を見ます。私は決して死ぬことはありません。この体の溶解はありますが、それは私の死を意味するものではありません。私は常に継続します。

このことは、私たち全員に当てはまります。五蘊は常にエネルギーを生み出していますので、あなたは単なるこの肉体を超えています。それはカルマ、即ち行動と呼ばれています。しかし、行為者はいません。あなたは行為者を必要としません。行動だけで十分です。このことは、量子物理学の観点から理解することができます。質量とエネルギー、そして力と物質は、2つの独立した物ではありません。それらは同一です。

質問:儀式で仏教徒になれますか?

回答:いいえ、仏教徒になるのは儀式によってではありません。仏教徒になるのは実践に全力を傾けることによってです。仏教徒は多くの儀式祭典に捕捉されますが、仏陀はそれを好んでいません。経典では、特に仏陀が悟りを開いた直後の教えにおいては、私たちは儀式をなくすべきであると仏陀は言いました。あなたがただ儀式を行ったからといって、悟り解放を得ることはありませんが、人々は仏教をひどく儀式を偏重するものにしてしまいました。私たちは仏陀に親切ではありません。

質問:あなたは何が人を仏教徒にすると思いますか?

回答:仏教徒と呼ばれてはいないかもしれない人が、仏教徒の人よりも仏教徒であり得ます。仏教は、マインドフルネス集中洞察からできています。あなたがこれらのものを持っているなら、あなたは仏教徒です。そうでない場合は、あなたは仏教徒ではありません。あなたが人を見て、その人がマインドフルで、思いやりがあり、理解があり、洞察力を持ってることが分かると、あなたはその人が仏教徒であることを知ります。しかし、その人が尼僧だとしても、これらのエネルギー資質を持っていないなら、仏教徒の外見をしているだけで、仏教徒の中身は持っていません。

(解説)
ティク・ナット・ハンの教えは、正真正銘の仏陀の教えである、と私は本当に感じます。そしてまた、輪廻転生と過度な儀式は欺かれた仏教の2つの例である、と指摘するティク・ナット・ハンに私は同意します。チベット仏教は、所謂死亡時に微細な意識が体から離れる、と説いていることを私は知っています。そして驚くべきことに、ティク・ナット・ハンの弟子の一人(法師)ですら「仏陀は、私たち(意識)がこの体を離れる時、私たち(意識)は自分の行動の結果を私たち(意識)と一緒に連れて行くと言いました」、と記述していることも私は知っています。ティク・ナット・ハンが言う通り、それは欺かれた仏教です。体と意識は相互に依存し浸透しています。意識は常に体と一緒にいますから、体から離れることはできません。意識は体から離れて単独で存在することはできません。それが正真正銘の仏陀の教えです。

儀式については、「私たちは儀式をなくすべきである」、という仏陀の言葉に私は完全に同意します。そして、「仏教徒になるのは儀式によってではありません。仏教徒になるのは実践に全力を傾けることによってです。あなたが、ただ儀式を行ったからといって、悟りや解放を得ることはありません」、というティク・ナット・ハンの言葉に私は完全に同意します。「仏教は、マインドフルネス、集中、洞察からできています」、というティク・ナット・ハンの言葉はシンプルですが、非常に説得力があります。

(参考) 
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-40724856
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275

Tuesday, February 23, 2016

意識の種子

ティク・ナット・ハンは、心行(精神形成物)の種に関して以下のことを述べました。

「仏陀によると、人間の誕生は始まりではなく、継続であり、私たちが生まれる時、善の種子残酷の種子目覚めの種子のような全ての異なる種類の種子が既に私たちの内部にあります。私たちの中の善か残酷のどちらが顕れるかは、私たちが養う種子、私たちの行動、私たちの生き方に依存するのです。」 (ティク・ナット・ハンの「愛の園」 — マインドフルな関係へのガイド — はじめに より抜粋)
(参考)http://www.lionsroar.com/growing-together/

「怒りは、意識の深い所に所謂「内面のもつれ」と呼ばれるものとして貯蔵されます。このもつれは、恨みや憤りの感情になるものです。それは風邪をひいているようなものです。私たちが病気になった時、正しい薬を摂取しなかったり、誰かにマッサージをしてもらわなかったなら、風邪は私たちの体の奥深くに達して治療するのがはるかに困難になるかもしれません。私たちの怒りが意識に深く達すると、それは私たちが攻撃的な身ぶりや不愉快な振舞をする原因となる可能性のある「内面のもつれ」をそれと知らずに創造します。」 (ティク・ナット・ハンの「一緒に楽しく」より抜粋)

(質問)
なぜどのようにこのようなことが起こるのでしょうか?ティク・ナット・ハンは、以前そのことについて説明したことがあるでしょうか?

(解説)
ティク・ナット・ハンが、私たちは先祖の重荷や才能を背負っていると言ったのを私は覚えています。私たちが先祖人間だけではなく、動物、植物、鉱物も含む)の継続であることは理解できますが、なぜどのようにこの継続が起こるのかを、私は知りたいのです。意識の種子が鍵です。しかしながら、ティク・ナット・ハンが、この継続の仕組みについて言及したのかどうか、私は知りません。その仕組みはまだ科学的に証明されていませんので、ティク・ナット・ハンはまだそのことについて言及していないのかもしれないと、私は推測します。ティク・ナット・ハンは欺かれた仏教を教えたくありませんので、前世までのカルマについての言及には非常に慎重です。ですから、その仕組みなぜ、どのように種子が阿頼耶識に播種されるのか)、及び体と意識の関係各素粒子は意識へ包み込んでおり、意識は体へ包み込んだものを開いている)が科学的に証明された時に、ティク・ナット・ハンはそれについて話し始めるのかもしれません。

(Cf.) http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-41883334
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-44661723
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-43851275

ティク・ナット・ハン

Monday, September 28, 2015

デヴィッド・ボーム (5)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (5)

アインシュタインは最終的に、全てのものは一つの場であり、全ての場が合併したものであるという場の理論の見解の方へ動きましたので、それは完全性への第一歩でした。それはわずかな一歩でしたが、それでもそれは始まりでした。

完全性はあなたがたどり着ける場所ではありません。完全性は生命全体への態度、または取り組み方のようなものです。それは一つの方法です。私たちが現実への可干渉的な取り組み方を持つことができるならば、現実は私たちに可干渉的に応答するでしょう。

しかし、自然は途方もなく、私たちの地球に対する考え方に影響を受けてきました。自然は今、破壊され続けています。私たちがどのように考えていたかによって、影響を受けなかったものは地球上にはほとんど残されていません。

私たちが可干渉的な取り組み方を持つことができるなら、意図しない結果ではなく、むしろ意図する結果を生み出すでしょう。それが最初の大きな変化です。その後、私たちはよりきちんとし、調和がとれ、より幸せになるでしょう。私たちはそこに全てのことを集約できると思います。しかし、不幸の主な根源は、私たちが可干渉的でないことであり、それ故に、私たちは自分が本当に欲さない結果を生み出しているのであり、本当に欲さない結果を生み出し続けながら、その結果を克服しようとしているのです。」

デヴィッド・ボーム; 1990年、アムステルダム
「変化する経済において芸術が科学と精神性に出会う」会議にて

「デヴィッド・ジョセフ・ボーム(1917 - 1992)はアメリカの理論物理学者であり、量子論、心の哲学、神経心理学に革新的かつ伝統を破る着想を与えた。彼は20世紀の最も顕著な理論物理学者の一人であるとみなされている。」

(ウィキペディア)

アインシュタインもデヴィッド・ボームも全てのものは一つであるという結論に到達しました。言い換えると、全ての生命は一つであり、現実は切り刻むことができない完全性を持つということです。しかしながら、(エゴの)人間は、分割してはならないものを考えや概念や言葉で無理やり切り刻みますので、現実の本質に触れることができません。全てのものは相互に依存し浸透し合っていますので、独立して存在することはできないにも拘わらず、無理やり分離し独立させてしまっています。もちろんその結果、無意識に自己破壊を続け、実は自分が創造した色々な問題の克服に追われているという、正にマッチポンプの愚かなパターンにはまっています。仏陀は、「空」で独立した存在の不在を説き、独立した自己であるエゴを手放すように助言しました。その手法として仏陀が提案したのが、意識(本当の自分)を今ここに呼び戻して思考(エゴ)を停止し、心身を結合するマインドフルネスです。尚、完全な悟りには、更に概念の絶滅が不可欠であり、そのためにはあるがままの現実の本質に触れるための集中と洞察が必要です。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(おわり)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Sunday, September 27, 2015

デヴィッド・ボーム (4)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (4)

完全性は態度というか一つの取り組み方ですが、相対性理論と量子論によって科学的な理解を付与され得ます。私たちが望むなら、世界を一つの全体とみなすことができます。

意識は真に、この内在的秩序の最も直接的な経験です。あなたはもっともっと細かい意識の網について考えるかもしれませんし、私たちは内在的秩序のもっともっと細かい側面をとらえることについて考えるかもしれません。意識には暗黙の知性、広がる知性のようなものがあると私は思います。知性の源は必ずしも脳内にないことは分かりますよね。究極の源のことです。しかし、知性の源は全体の中に包み込まれているのです。さて、あなたがそれを神と呼びたいものについての質問は、あなたが(神という)言葉によって何を意味するかに依ることは分かりますよね。なぜなら、個人的な神として(神という)言葉を受け止めると、何らかの方法で(神という)言葉を制限してしまうかもしれないからです。

世界観の主要な源として、科学は宗教に取って代わり始めたと私は思います。それ故に、科学が断片的な世界観を採るなら、科学は意識に重大な(悪)影響を持つことになります。

人々が科学から作るものは何でも科学であり、科学はいつの時代も変化してきました。そして今、科学は2~3百年前のものと異なっており、再び異なる可能性があります。科学は必ずしも測定を伴わなければならないという固有の理由はありません。それは過去2~3世紀にわたって起こったもう一つの歴史的な発展です。測定は完全に偶発的であり、絶対に必要ではありません。

(内在的秩序を理解できれば、意識は体の中(各素粒子とエネルギーの内部)に包み込まれており、その意識は私たちが見たり知っていることの全てを包み込んでいることが分かります。そして、全体が包み込んでいる意識の中に「神」と呼ぶこともできる知性の源が包み込まれているとデヴィッド・ボームは明言しています。これは、仏陀が全ての物には既に仏性が宿っていると説いたことと重なります。また、分割不可能な一つの全体である世界を切り刻む断片的な世界観にデヴィッド・ボームは警鐘を鳴らしています。これも、分離による二元性が、あるがままの現実の本質に触れることを妨げるので、非二元性へ至るために「空」の智慧を説いた仏陀の教えと重なります。そして、断片的な世界観や二元性の根源は、人間(エゴ)がでっち上げた考えや概念なのです。どうやら、仏陀の教えが全て科学的に解明される日が来るのは、間違いない予感がします。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Albert Einstein's theory of general relativity in 1915

Saturday, September 26, 2015

デヴィッド・ボーム (3)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (3)

私は原罪のようなものがあるとは思いません。私は原罪のようなものは、私たちの社会の成長と共に一層発展したのだと思います。狩猟・採集社会の人々が、全員そんなに競争心旺盛であったという証拠はありません。しかし、あなた方が社会をより大きくし、あなた方がより多くの組織を持つにつれ、あなた方はトップに到達する必要があり、底辺の人々が苦しむことになります。自然と、競争する時勢の流れがありました。競争する欲望は弱さというより、間違いです。

ですから、まず最初に私たちがしなければならないことは、長い目で見れば、何千年もかけて発展してきた私たちの思考法を見ることです。私は、競争が人類の原始の思考法だったとは全く思いません。しかし、多くの複雑な理由から競争が起こったのだと思います。

さて、それは、人々が参加する必要があること、協調する努力をする必要があること、対話、真の対話をする必要があることを意味します。その対話では、単に意見を交換するのではなく、抵抗することなく、実際に他人の見方に深く耳を傾けるのです。

もし、私たちが自分自身の意見にしがみつき、他人に抵抗するなら、対話を行うことはできません。それは、私たちが他人を受け容れるべきであるという意味ではありませんが、他人をつまみ出すことなく、他人を抑圧することなく、全ての意見を見て、私たちの前で、あるがままに、全ての意見を保留しておくことができるようになる必要があります。

(競争は分離や差別を引き起こしますので、全ての煩悩の根源であり、苦しみの根本原因です。競争に於いては勝者は一人もおらず、全員が敗者になります。一時的に勝者になったとしても、その地位を維持するために無理な努力を強いられ、必ず狙われますのでいつかは敗者に転落するからです。従って、競争とは自己破壊であると言っても過言ではありません。自分が勝つために戦うのは、エゴのすることです。原始時代には競争することなく、協力し合って協調していたことでしょう。しかし、社会の拡大に伴って組織を率いるリーダーが登場し、力(暴力)で富や権力や地位を独占していったのでしょう。相互依存の性質を持つ全てのものが生き抜く道は協調しかないにも拘わらず、エゴの人間は真逆の分離を引き起こす競争を選択したのです。自他を分離してしまうと対立が生じますが、真に対立を解決するには対話が不可欠です。力(暴力)で敵をねじ伏せようとしても対立が深まるだけです。真の解決にはどうしても相互の深い傾聴を通した和解が必要です。

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Best friends Photo by The Ugly Daughter

Friday, September 25, 2015

デヴィッド・ボーム (2)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (2)

汚染、即ち生態環境のような問題を見てみましょう。生態環境、それ自体は問題でないことは分かりますよね。生態環境は、それ自体で完璧に上手く動作しています。私たちのせいです、そうでしょう?私たちが生態環境を分割するといった特定の方法で考えており、各人が自分独自のことをしているので、それは問題なのです。

従って、生態学的問題は思考に起因しています、そうでしょう?しかし、思考は、そこにあるものは問題だと考え、私はそれを解決しなければなりません。しかし、同時に思考は問題を作る全てのことをやっており、それを試し克服するための別の一連の活動を行おうとしていますので、それは意味を成していません。思考は、生態学的問題、国家的問題、その他あらゆる問題を作っていることをするのを止めないことは分かりますよね。

本当に、地球は一家族ですが、私たちはそのように取り扱っていません。ですから、それが経済的意味における第一歩であり、地球は一家族であり依存する全てであると言うことです。全てで一つなのが分かりますよね。

さて、内在的秩序は私たちがそのこと、全てのものが全てのものを包み込んでいること、単に誰もが誰もに依存しているだけではなく、深い意味では実際に誰もが誰もであることを理解するのに役立ちます。全ての私たちの物質は地球から来ており、地球へと戻って行きますので、私たちは地球であることが分かりますよね。私が意味することは、地球は私たちを取り巻くただの環境であると言うのは間違っているということです。それは、胃をその環境の一部として見なしている脳のようなものです。

英語の思いやりという単語は、一緒に感じる(苦しむ?)という意味であり、人々が一緒に同じ気持ちを持っているなら、お互いに責任があり、それであなたは思いやりを持ちます。

(全ての問題の根源は人間の考え、思考です。自分勝手なことをするから問題が生じるのです。思考はエゴがする行動ですので、問題を解決しなければならないと考えながらも、新たな問題を作り続けていることに気付けません。自分のことしか考えていないからです。従って、考えるとは自分勝手なことを考えるという意味ですので、問題を解決することは不可能です。真に問題を解決したいなら、考えてはいけないのです。地球は一家だと口では言っている人が正反対の行動をしているのは、当人がエゴだからであり、騙されてはいけません。内在的秩序は、全ての物は他の全ての物を包み込んでいるという理論です。例えば、人間が食べる物は人間以外の水、空気、土、太陽光という全宇宙の要素からできていますので、人間は体内に全宇宙を包み込んでおり、人間の体が分解すると各要素が全宇宙へ戻って行きますので、全宇宙が人間を包み込んでいることになります。従って、地球とは人間そのものですので、外部の環境ではありません。環境を汚染することは自分を汚染していることだと気付いた瞬間、自分勝手なエゴの行動は取れなくなるのです。)

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

Thursday, September 24, 2015

デヴィッド・ボーム (1)

次のビデオをご覧ください。デヴィッド・ボームの言っていることは、正に仏陀が「空」によって説いたことと同一です。


完全性:現実への可干渉的なアプローチ – デヴィッド・ボーム (1)

「厄介なことはこの断片化だと私は思います。(中略)全ての思考は断片に分割されています。この国家、この国、この業界、この職業などのように。(中略)そして、これらは問題に上手く対処することができません。思考は何にも影響を与えることなく、ただ物事のあるがままをあなたに伝えることを求める方法で伝統的に発展してきたため、このようなことが起こります。それ故に、人々は自分が問題を創造しており、どうやらそれを解決しようとしているらしいということを理解することができません。(中略)分裂していない完全性は、全生命への態度、またはアプローチの一種です。私たちが現実に対して可干渉的な(波動が互いに干渉しあう性質をもつ)アプローチを持つことができるならば、現実は私たちに可干渉的に応答します。」

以下は、1990年、アムステルダムでのドキュメンタリー「変化する経済において芸術が科学と精神性に出会う」で取り上げられた、ビデオ「完全性と断片化」からの転写であり、デヴィッド・ボームのプレゼンテーションからの一部抜粋です。

「私たちは外面的に関連しているだけでなく、内面的に全てと関連しています。意識は全体との内部の関係であり、私たちは全体から摂り入れ、全体へ行動します。私たちが摂り入れるものが何であろうとも、私たちが何であるかを基本的に決定します。

まず第一に、厄介なことはこの断片化だと私は思います。全ての人、全ての思考が断片に分割されています。この国家、この国、この業界、この職業などのように。(中略)そして、これらは問題に上手く対処することができません。それに口を差しはさむことは非常に困難です。

しかし、思考は何にも影響を与えることなく、ただ物事のあるがままをあなたに伝えることを求める方法で伝統的に発展してきたため、このようなことが起こります。それ故に、人々は自分が問題を創造しており、どうやらそれを解決しようとしているらしいということを理解することができません。

(デヴィッド・ボームが指摘する断片化という厄介な問題とは、分裂していない完全性である現実を思考が切り刻んでいることから発生する問題のことです。元々一つである分離されていない完全な地球という生命を、人間が思考によって無理やり分離したことから、あらゆる対立や紛争が生じています。簡単に言うと、「自他の分離」が引き起こす問題です。そして、思考とは、言い換えると「概念」、「言葉」のことであり、これらは全て「区別」、「分離」、「差別」するために人間が創造したものなのです。)

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(つづく)

(参考)
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
https://creativesystemsthinking.wordpress.com/2014/10/01/wholeness-a-coherent-approach-to-reality-david-bohm/

地球=分裂していない完全性

Friday, July 17, 2015

Karma (2) カルマ (2)

Karma By Thich Nhat Hanh

In a former time, we were fish, we were birds, we were reptiles. And our ancestors are fully present in us, in the here, in the now. We continue as a reptile. We have many reactions that belong to the reptile species. We want to say that we are created by a God in his image. But in fact, we have many ancestors. When a fish swims happily in the water, it is very proud of its talent for swimming. And a fish has the right to say that God must be the most wonderful swimmer in the world. And a rose can say, “God is the most beautiful rose in the world, because he has created me like this.” If you are a mathematician, you tend to think God must be the best mathematician in the world. Your notions of God are anthropocentric. If you are a gay person, you may think that God is the best gay person in the world. Why not? The fish has that right, the rose has that right, so we all inter-are. We continue our ancestors in us now. We are human, but we are at the same time a rock, a cloud, a rabbit, a rose, a gay, a lesbian. We are everything. Let us not discriminate or push away anything, because we are everything. Everything is in us. That’s the right view.

If we see that everything is in man and man is in everything, we know that to preserve other species is to preserve ourselves. That is deep ecology, that is interbeing. That is the teaching of the Diamond Sutra. A good Buddhist should be an ecologist, trying her best to preserve the environment, because to preserve the environment is to preserve yourself. Man contains the whole cosmos.

On the phenomenal level there seem to be birth, death, being and non-being, but ontologically, these notions cannot be applied to reality. Birth and death are just notions. The true nature of a cloud is the nature of no birth and no death. The scientist Lavoisier says that nothing is born, nothing dies. He agrees completely with this teaching. A cloud manifests as a cloud. There is no birth of a cloud, because before being a cloud, the cloud has been the tree, the ocean, the heat generated by the sun. To appear as a cloud is only a moment of continuation. And when a cloud becomes a river, that is not death, that is also a continuation. We know that there is a way to continue beautifully, and that is to take care of our three aspects of karma – thinking, speaking and acting.

Being and non-being are more wrong views. Non-being is a wrong view, but being is also a wrong view. The absolute reality transcends both being and non-being. Before you are born, you did not belong to the realm of non-being, because from non-being, you cannot pass into being. And when you die, you cannot pass from being into non-being. It’s impossible. To be, or not to be – both are wrong views. To inter-be is better.

The dynamic consciousness is called karma energy. Karma energy is not abstract. It determines our state of being, whether we are happy or unhappy. Whether you continue beautifully or not so beautifully depends on karma. It’s possible to take care of our action so that we don’t suffer much now and we will continue to do better in the future. There is the hope, the joy.

(end)

(Cf.) http://www.mindfulnessbell.org/wp/tag/karma/ 
(Within Dharma Talk: The Buddhist Understanding of Reality)

「カルマ」 - ティク・ナット・ハン

昔、私たちは魚でしたし、鳥でしたし、爬虫類でした。そして、私たちの祖先は今、ここで、私たちの中に完全に存在しています。私たちは爬虫類として継続します。私たちは爬虫類の種に属する多くの反応を持っています。私たちは神のイメージで神によって創造されたと言いたいです。しかし、実際には私たちは多くの祖先を持っています。魚が水の中で楽しく泳ぐ時は、水泳の才能を非常に誇りに思います。そして、魚は神は世界で最も素晴らしい泳者であるに違いないと言う権利を持っています。そして、バラは「神はこのように私を創造しましたので、世界で最も美しいバラです」と言うことができます。あなたが数学者であれば、あなたは神が世界で最高の数学者であるに違いないと思う傾向にあります。神についてのあなたの概念は人間中心主義です。あなたが同性愛者であれば、あなたは神が世界で最高の同性愛者であると思うかもしれません。それはそうでしょ?魚は権利を持っているし、バラは権利を持っているので、私たち全ては相互に依存しています。私たちは今、自分の中で私たちの先祖を続けます。私たちは人間ですが、同時に岩だし、雲だし、ウサギだし、バラだし、同性愛者だし、レズビアンです。私たちは全てなのです。私たちは全てのものであるのですから、何も差別しないように、押しのけないようにしましょう​​。全てのものが私たちの中にあります。それが正しい見方です。

全てのものが人間の中にあり、人間が全ての中にあることを理解するなら、他の種を維持することは自分自身を維持することだと私たちは知ります。それは深い生態学であり、興味深いことです。それは、金剛般若経の教えです。環境を維持することは自分自身を維持することであるため、善い仏教徒なら環境を保全するために最善を尽くしながら、生態学者であるべきです。人間は全宇宙を含んでいます。

現象レベルでは、生、死、存在、非存在があるようですが、本体論的には、これらの概念を現実に適用することはできません。生と死はただの概念です。雲の本質は不生不死の性質です。科学者のラヴォアジエは、「何も生まれないし、何も死なない」と言います。彼はこの教えに完全に同意します。雲は、雲として顕現します。雲になる前に、雲は木、大海、太陽によって発生した熱でしたので、雲の誕生はありません。雲として現れることは、継続における一つの瞬間でしかありません。そして、雲が川になる時、それは死ではなく、それもまた継続です。私たちは、美しく継続する方法があることを知っており、それは思考、発言、行為というカルマの三つの側面の世話をすることです。

存在と非存在は、更に誤った見方です。非存在は誤った見方ですが、存在もまた誤った見方です。絶対の現実は存在と非存在の両方を超越します。あなたが生まれる前に、あなたは非存在の領域に属していませんでした。なぜなら、あなたは非存在から存在へ通り抜けることはできないからです。そして、あなたが死ぬ時、あなたは存在から非存在へ通り抜けることはできません。それは不可能です。生きるか死ぬかの両方共、誤った見方です。相互に存在すると言う方がより良いです。

動的な意識はカルマのエネルギーと呼ばれます。カルマのエネルギーは抽象的ではありません。それは、私たちが幸せか不幸かという私たちの存在の状態を決定します。あなたが美しく継続するか、あまり美しくなく継続するかは、カルマに依存します。私たちは今、あまり苦しまず、将来的にもっと上手くやることを継続できるように、自分の行動の世話をすることは可能です。そこに希望、喜びがあります。

(おわり)

(参考)http://www.mindfulnessbell.org/wp/tag/karma/
(Dharma Talk: The Buddhist Understanding of Realityをご参照)

Plum Village

Thursday, July 16, 2015

Karma (1) カルマ (1)

Karma By Thich Nhat Hanh

We began our talk with the notion that both consciousness and object of consciousness are manifestations of consciousness. Consciousness is a dynamic force that is at the base of manifesting living beings and the world. In Buddhist insight, the world is a manifestation of consciousness. Many scientists have begun to agree that the cosmos is a manifestation of consciousness. As a scientist, you cannot stand outside as an observer; to really understand, you have to be a participant.

In Buddhism we speak of karma as the threefold aspect of action; thinking, speaking and acting. When we produce a thought, that thought can change us and can change the world in a good way or in a bad way. If it is right thought, if that thought is produced in line with right thinking, then it will have a healing, nourishing effect on our body and on the world. Just by producing right thinking you can change the world. You can make the world a better place to live, or you can transform the world into hell. That is karma, action; this is not something abstract. For example, the economic crisis is born from our thinking. There is a lot of craving and fear, and the value of the dollar, of the euro is largely created by the mind. Everything comes from the mind. That is why thinking is action and speaking is action. Speaking can release tension and reconcile, or speaking can break relationships. Speaking can destroy someone’s hope and cause that person to commit suicide. Physical action is also energy.

There is individual karma that has an effect on everyone. Everything that happened to you happened to the world. You produce that thought, you are affected by that thought, and the world is also affected by that thought. There is also collective karma. During this twenty-one-day retreat, the friendship, the joy, the healing, the transformation is the work of everyone. Each one of us contributes through our practice, through our insight, through our speech. In Buddhism, we do not believe in a God that arranges everything, but we don’t believe in coincidence either. We believe that the fate of the planet depends on our karma, on our action. It does not depend on a God, it does not depend on chance, it depends on our true action. Karma is the dynamic force that underlies everything. I think that scientists will have no difficulty accepting this.

Man is present in all things and all things are present in man. Man just arrived yesterday in the history of life on earth. Looking into a human being, we can see our non-human elements, namely our animal ancestors, our vegetable ancestors, and our mineral ancestors. In our past life we were a cloud, and we were a rock. Even in this moment, we continue to be a cloud, we continue to be a rock. There is a mountain in us, do you see? There are many clouds in us, do you see?

(to be continued)

(Cf.) http://www.slideshare.net/compassion5151/karmic-cycle

「カルマ」 - ティク・ナット・ハン

意識と意識の対象の両方が意識の顕現であるという概念から、私たちは話を始めました。意識は顕現している生きものと世界の基盤にある動的な力です。仏教の洞察では、世界は意識の顕現です。多くの科学者が宇宙は意識の顕現であることに同意し始めています。科学者としてのあなたは、観察者として外部に立つことはできません。本当に理解するには、参加者でなければなりません。

仏教では、思考、発言、行為という行動の三重の側面としてカルマのことを話します。私たちが思考を生成する時、その思考は、良きにつけ悪しきにつけ、私たちを変え、世界を変えることができます。それが正しい思考なら、その思考が正しい思考に沿って生成されているなら、それは私たちの体に、そして世界に癒しと栄養の効果があります。正しい思考を生成するだけで、あなたは世界を変えることができるのです。あなたは世界を生きるのにより良い場所にするか、または地獄へ変えることができます。それがカルマ、行動です。これは抽象的なことではありません。例えば、経済危機は私たちの思考から生まれます。多くの渇望と恐れがあり、ドルやユーロの価値は主に心によって創造されます。全てが心から来ています。ですから、思考は行動であり、発言も行動なのです。発言は緊張を解放して和解できるか、または関係を壊せます。発言は誰かの希望を破壊し、その人に自殺させる原因になり得ます。肉体的行動もまたエネルギーです。

皆に影響を与える個々のカルマがあります。あなたに起こった全てのことは世界に起こったことなのです。あなたはその思想を生み出し、その思考の影響を受け、世界もその思考の影響を受けます。また、集団的カルマもあります。この二十一日の瞑想会では、友情、喜び、癒し、変容が誰もの仕事です。私たち一人一人が、実践を通して、洞察を通して、発言を通して貢献しています。仏教では、全てのものをアレンジする神を信じませんが、偶然もまた信じません。私たちは、地球の運命は私たちのカルマに、私たちの行動にかかっていると信じています。地球の運命は神に依存せず、偶然に依存せず、私たちの真の行動に依るのです。カルマは全ての根底にある動的な力です。科学者がこれを受け容れるのに何の困難もないだろうと私は思います。

人間は全てのものの中に存在し、全てのものは人間の中に存在しています。人間は地球上の生命の歴史の中で昨日到着したばかりです。人間の中を調べると、人間以外の要素、即ち私たちの動物の祖先、私たちの植物の祖先、そして私たちの鉱物の祖先を見ることができます。過去の生命では、私たちは雲でしたし、岩でもありました。この瞬間においてさえ、私たちは雲であり続け、岩であり続けます。私たちの中には山がありますが、あなたは見えていますか?私たちの中には多くの雲がありますが、あなたは見えていますか?

(つづく)

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42683194

Plum Village