Wednesday, July 8, 2015

何が空?

次のビデオのティク・ナット・ハンのメッセージは非常に有益です。


「空(くう)」は哲学や現実の記述ではありません。「空」は実践です。「空」は非存在を意味するものではありません。非存在と「空」の間には大きな違いがあります。このグラスを見るとしましょう。これは空(から)です。グラスは空ですが、非存在ではないでしょ?空であるためには、あなたはそこに居る必要があります。(入れ物がないと空にはなれない趣旨)それが私たちが学べる一つです。「空」は非存在ではありません。

私たちが学べる二つ目のことは、グラスが空であると言う時、私たちは「何が空?」と尋ねなければなりません。空気が空ではありません。いいえ。お茶が空ですが、空気で一杯です。ですから、尋ねるべき知的な質問は、「何が空?」です。(中略)多分、多くの答えがあります。しかし、最初の答えは次のようになるかもしれません。「独立した存在が空、または独立した自己が空」。

このバラは「空」です。あなたは「バラは太陽光が空だ」と言うことはできません。バラの中には太陽光があります。あなたが太陽光を取り除くなら、バラは崩壊します。バラの中には雲があります。雲がなければ(雲が)雨にならず、バラは成長できません。そしてもし、あなたがバラから雲を取り去れば、バラは崩壊します。バラの中には大地があります。大地、土、ミネラルがなければ、バラはあなたのためにそこに存在できません。ですから、こんな風に見続けたなら、バラの中に多くのものを見い出します。私たちの心、時間、空間を含めて、全宇宙がバラの中に存在しているのを見ることができます。ですから、バラは本当に宇宙で満ちています。あなたはバラが宇宙で一杯だと言うことができます。私たちの体もまた宇宙で満ちているのです。(中略)バラは「独立した存在が空」と言うでしょう。バラはバラでない要素だけからできています。太陽光、土、雨などのようなバラでない要素です。そして、バラでない要素が一緒に集まった時、バラが顕現します。ですから、バラは全てのもので満ちていますが、独立した存在が空です。そして、それが「空」の意味なのです。

ですから、独立した存在はありません。私たちが見るためにそのような集中を使う時、たくさんのことを発見します。そして、その洞察が怒り、欲求不満、差別から私たちを解放します。父親が息子を見る時、自分の息子の「空」の性質を見ることができるべきです。自分の息子が多くの要素、多くの息子でない要素からできていることを見なければなりません。バラが多くのバラでない要素からできているように。ですから、父親は息子の中にいますので父親も含めて、息子は多くの息子でない要素からできています。実際には、息子が父親の継続であることを実証するのはそれほど難しいことではありません。そして、父親は息子の各々の細胞の中に存在します。また、母親も同様です。父親、母親は息子を作り上げる息子でない要素です。そして、このように続けていけば、息子でない要素と呼ばれ得る教育、食べ物、文化など全てを私たちは息子の中に見ます。

そして、息子が父親を見る時、息子は自分も含めて、父親は父親でない要素からできていることを理解することができます。もし、息子がいないなら、どうして彼は父親になれるでしょうか?すると、息子は自分の中に父親を見ることができ、父親は息子の中に自分を見ることができます。師匠と弟子のように、師匠が師匠でいられるのは弟子のおかげです。師匠がいてくれるから、弟子が弟子であり得るのです。ですから、相互依存の性質があります。それがあるから、これがあるのです。そして、これは「空」、相互依存についての仏典の中で最もシンプルな仏教の記述です。それがあるから、これがある。極めてシンプルですが、極めて重要です。それがないから、これがないのです。

そして、現代科学もまたそのことを素粒子の観点から、量子の観点から実証しようとしていると私は思います。デビッド・ボームは、一個の電子のようなものは、他の全ての電子によって作られていると言いました。一つは多くを、全てを含んでいます。私たちがバラは全宇宙を含んでいると言ったように。ですから、今日、量子物理学において、彼らは全く同じ種類の言語を話しています。

ですから、息子が息子の中に父親を乗せていることを父親が理解できるなら、息子が父親の継続であることを父親が理解できるなら、息子の苦しみは父親の苦しみであり、父親は「空」と呼ばれるような洞察を得ます。なぜなら、自分の息子を苦しめることは、自分自身を苦しめることを意味するからです。そして、息子もまた同じように実践することができます。息子は父親が自分の中に居ることを知っています。二人は相互に依存しています。二人はお互いの中にいます。そして、一方を苦しめることは、同時に他方も苦しめることを意味します。

あなたがその集中、その洞察を有する時、あなたは他人が苦しむのを防ぐでしょう。なぜなら、他人の苦しみは自身の苦しみであることをあなたは知っているからです。プラム・ビレッジでは、苦しみは個人の問題ではないとよく言っていました。そして、私たちはまた、幸福は個人の問題ではないと言います。父親が苦しんでいるなら、息子が幸せになれるわけがありません。逆も同様です。そして、それは「空」と呼ばれる解脱の門です。「空」と呼ばれる集中があなたの考え方や見方に存在するように物事を見る実践をするなら、あなたは差別から解放されます。父親と息子、パレスチナ人とユダヤ人、北と南、黒人と白人、ヒンズー教徒とイスラム教徒、等々の間の差別です。双方は相互に依存しており、あなたは自身の性質において空(独立した自己が空)ですので、反対側が苦しむなら、あなたもまた苦しみます。これは仏教の非常に重要な教えであり、実践です。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42868476

ティク・ナット・ハン