Thursday, June 2, 2016

心の中の心の瞑想 (1)

心の中の心の瞑想」に関する次のティク・ナット・ハンのビデオを 1:11:27 ~ 1:17:17 迄ご覧下さい。


以下は抜粋です。

引用:
深く観る第三の領域、深く観る第三の対象は、「心」です。それはあなたの心です。実践者は自分の心を観ます。実践者の心が瞑想の対象です。科学者は自然を見るのが好きす。ここでの心とはのようなものです。そして、川が水の滴でできているように、心はいわゆる心行(精神形成物)でできているものです。そして、私の伝統では、51の心行について話します。見習い僧として、私は51の51の心行を暗記しなければなりませんでした。そして、心行が生じた時、私はその心行を認識し、本当の名前で呼ぶことができる必要がありました。それが怒りなのか恐れなのかを、怒りが生じた時は「これは怒りです」という風に、私は言う必要がありました。

息を吸って、私は怒りと呼ばれる心行があることを知っています
息を吐いて、私は怒りと呼ばれる心行をよく世話してあげます

ですから、あなたは(心行の)呼称を暗記する必要があります。心行が生じる時、あなたはそれぞれの心行を認識します。ですから、瞑想することは川の土手、即ち心の土手に座って、生じる全ての心行を認識することです。なぜなら、心は心行の連続であるからです。形成物とは、仏教における専門用語です。花のように、全ての配合された物は形成物です。花は形成物です。花は、花ではない要素のみからできています。例えば、太陽光です。ですから、花が顕現するために多くの物が一体となります。ですから、花は形成物なのです。花は物理的な形成物です。私の手は、生理的(生物学的)形成物である形成物です。そして、あなたの怒りは精神形成物(心行)です。

ですから、心を瞑想するとは、あなたが川の土手にってそれぞれの心行が生じては消え去るのを観察するということを意味します。まず第一に、これはシンプルな実践、即ちシンプルな認識です。あなたは心行をつかもうとすべきではありませんし、心行から逃げようとすべきではありません。あなたは中立の立場を守り、あなたのすべきことは、ただ心行を認識し、本当の名前で心行を呼ぶことです。

そういうことで、慈しみ、思いやり、平静、非差別、喜び等というような健全な心行があります。そして、恐れ、怒り、憎しみ、絶望のような不健全な心行があります。もし、一つの心行が生じたなら、瞑想者はそれを認識できる必要があり、必要であれば、その後それを深く観て、それをよく世話してあげようとします。すると、追って、私たちはその心行を自分が望むように変容することができるでしょう。

(9. 心行に気付く)
そして、念息経」で、仏陀は4つの実習だけを提案しました。その最初の実習、つまり第九の実習は、ちょうど生じた心行に気付くことです。恐れが生じた時、私たちはそれを認識し、本当の名前でそれを呼ぶために、そこに居る必要があります。そして、もし必要であれば、その後の恐れの対処法を私たちは知っておくべきです。逃げようとせず。覆い隠そうとせず。ですから、心行が現れる度に、あなたは全ての心行を認識するのです。
:引用終わり

(解説)
第九の実習は、世話をよくしてあげるために心行に気付くことです。第七及び第八の実習(感情:51の心行の一つ)と第九、十、十一、十二(感情知覚を除く49の心行)の違いは、ルーツ(根源)です。感情のルーツはです。一方、49の心行のルーツは知覚頭の中の概念の連続)です。ですから、仏陀は51の心行を3つの部分、即ち感情、知覚、残りの49の心行に分割したのです。

これら二つの間では、対処法もまた異なります。仏陀は、私たちが感情を認識した時は、それをただ抱きしめ軽減するべきであると教えました。しかし、49の心行を認識した時は、それを抱きしめ、軽減することに加え、それを深く観て、必要であれば、それをよく世話してあげるべきであると、仏陀は教えました。良く世話をする具体的な手法は、愛に溢れた発言深い傾聴を通して心行深く観て根本原因を理解して思いやりを発生させ思いやりのエネルギーによって心行を変容するということです。私たちが心行の根本原因を理解した時、思いやりのエネルギーは自然に生じます。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

ティク・ナット・ハン