Tuesday, October 13, 2015

知性と非差別

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引用:
あなたができることで地球を守ろうとする時、執着がありますか、ありませんか?地球への執着です。仏教では、私たち(僧侶)は、実践者もまた、平等、平静、非差別について話します。しかし、私たちはまた、投資についても話します。四十二章經では、一人の善人を養うことは、物足りない五人を養うのに等しいと言われています。あなたが一人の善人を養って生かしておくと、その人は善人ではない五人よりも世の中により多くの善行をすることができます。分かりますか?ですから、非差別ではありますが、投資感覚のようなものもあります。あなたは、差別の対象であると思われるものも含めて、全てのために善い、肯定的なものに投資するのです。

あなたが仏陀の命と海賊の命を救う時、最初に仏陀を救う選択肢を持っています。なぜなら、あなたが海賊の命を救うなら、一人の命だけを救うことになりますが、あなたが仏陀の命を救うなら、あなたが救った仏陀は多くの命を救うのに役立つからです。それが仏教の伝統における投資感覚です。ですから、それは差別として見られる可能性があります。しかし、その内部には知性があります。インテリジェンス。それは二つの精進の実践のようなものです。あなたが否定的な心行(感情等の精神形成物)を差別することはありません。あなたは、それらがそれなりに有用であることを知っています。しかし、あなたは善い種子を好み、顕現する機会を善い種子により多く持ってもらいたいです。それが、知性と非差別です。(非差別ではあるものの、知性で効果を測り選択)

そして、行動、非暴力的行動、思いやりのある行動に関する限り、それは決して絶対的にはなり得ません。あなたが菜食主義を採る時、肉のために動物を殺すことを回避する意図を持っていますが、あなたが野菜を煮る時、多くの死んでいく微生物がいるのも事実です。ですから、煮野菜の料理は完全に菜食主義ではありません。分かりますか?ですから、絶対的なものは何もないのです。しかし、菜食主義者として食べることは、動物の肉を食べることより思いやりのあることです。ですから、程度があります。殺人犯が殺人するのをあなたが防ぐ時、多くの防ぐ方法があります。あなたが銃を持っていて、彼を撃たねばならないなら、彼の心臓や頭よりむしろ、彼の脚を撃ちたいかもしれません。または、あなたがそうでない方法でするなら、あなたの銃を使用しない方が良いです。分かりますか?あなたがカンフーを知っているなら(笑)、たとえ銃を持っていたとしても、あなたの銃を使用する必要はありません。

そのため、ある警察官がマインドフルネスの状態で自分の銃を携行できると聞いてとても喜んでいます。彼女は自分の銃を使用する必要が決してないことを知っており、そう望んでいます。ですから、人を殺す時、もちろん、人は思いやりをもって殺すことができます。しかし、それは偉大な人間だけができることです。もし、あなたが恐れから、怒りから人を殺すなら、それは(思いやりをもって殺すこととは)非常に異なります。しかし、暴力を避け、最少の損傷を引き起こすような方法で救助活動を実施することは常に可能です。たとえ、あなたが陸軍の大将であったとしても、軍事作戦の遂行をするなら、銃と兵士を使う必要があります。しかし、あなたが心に思いやりを持っているなら、あなたの作戦の遂行方法は、罪のない一般市民の殺害等を回避するものになるでしょう。ですから、暴力と非暴力の加減は、巧みで慈悲的であるべきです。重要なことは、自分の中に思いやりと知性を持つべきであるということです。
:引用おわり

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

ティク・ナット・ハン