Wednesday, June 15, 2016

心の対象の中の心の対象の瞑想 (9)

心の対象の中の心の対象の瞑想」に関する次のティク・ナット・ハンのビデオを 2:19:18 ~ 2:24:03 迄ご覧下さい。


以下は抜粋です。

引用:
ですから、AはAではない(A≠A)ということ、AはA以外の要素、花や一枚の紙だけでなく、あなたの原子、あなたの電子などの全てのものからできているということを理解することは非常に重要なのです。Aは、Aに署名を与えることができる要素からできている形成物でしかないということを私たちが理解しない限り、あなたは本当にはAを理解していなかったのです。ですから、この種の弁証法、仏教において私たちが中道の弁証法と呼ぶ弁証法に従うことが非常に重要なのです。中道の弁証法は、これとそれの概念、主体と客体の概念、存在と非存在の概念などを私たちが超越するのを助けてくれます。

ですから、私たちが仏教で実践する集中の種類は、私たちが全ての概念全ての差別を取り除くのを助けてくれる集中です。全ての差別です。そして、差別が取り除かれた時、分離はもはや存在せず、もう苦しみはありません。もし、私たちが苦しむなら、それは差別が原因です。そして、まず第一にそれは、存在と非存在生と死の間の差別が原因です。自分を殺そうとする人は、存在することを好みません。その人はもう存在したくないのです。すると、存在することが負担になります。そして、その人は非存在になることを切望します。なぜなら、その人は非存在の領域に属する方がずっと楽だと信じているからです。ですから、自殺を考えている人の心は、非存在を切望しています。なぜなら、存在することがその人や非存在を探し求めている人にとって、あまりにも重くなったからです。一方、存在すること(生きること)を探求している私たちは、非存在を非常に恐れています。

その種の(非存在への)憧れ、その種の苦しみは、存在と非存在の概念に基づいています。そして、仏教の洞察に照らした現実は、両方の(存在と非存在の)概念から免れています。現実は存在や非存在として説明することはできません。ですから、私たちが「なぜ、無より広いものがあるのか?」と質問をする時、それは哲学的な質問です。しかし、それはまた科学的な質問でもあります。なぜなら、どちらの場合も、哲学者科学者存在と非存在の概念に捕捉されているからです。そして、差別心を用いて、私たちは堂々巡りをします。私たちが別の道具を持たない限り、物事は不合理であると感じます。非差別の心は、私たちが全種類の概念を超越するのを助けることができます。すると、私たちが涅槃に触れ、不生不死の領域に触れ、真の自由を手にすることが可能になるでしょう。

(16.手放します)
最後(第十六)の念息の実習は、手放すことです。あなたは全ての概念を手放します。あなたは存在と非存在の概念を手放します。あなたは二つの区別されたものとしての、物質と心の概念を手放します。あなたはあなたの心独立した要素としての主体の概念、等等を手放します。その教えは非常に明白です。
:引用終わり

(解説)
全ての概念は、区別、分離、差別、即ち二元性のためのものです。エゴ(独立した(自性)自己)は、自己防衛のために自他を分離します。エゴは、「私は特別で独立している」、と考えます。それが差別心、即ち誤った見方です。そのような差別心は、恐れ怒り憎しみ絶望のような煩悩を引き起こします。ですから、エゴは概念によって引き起こされる煩悩に苦しむのです。全ての概念を投げ捨てるためには、全ての概念の本質が間違っていることを私たちは理解する必要があります。それ故に、私たちは瞑想する、即ち洞察を得るためにマインドフルネス集中を実践するのです。一度、私たちが全ての概念の本質を理解したなら、全ての概念を手放し完全な自由を得ることは非常に簡単です。私たちは歴史的次元では概念を使用する必要がありますが、決して概念に捕捉されることはありません。そして同時に、私たちは目覚めた意識(独立していない(無自性)自己)として究極の次元で生命の奇蹟に触れ続けることができるようになります。

(参考)
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42025929
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

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