Thursday, June 30, 2016

触地

触地

第一の触地では、私たちは自分の祖先から独立しており、自分の子孫から独立しているという見方から解放されました。私たちは自分の持つ時間の概念から解放されました。

第二の触地では、私たちは仏陀、菩薩、偉人、苦しむ人間、動物、植物、全てのものから独立しているという見方から解放されました。私たちは自分の持つ空間の概念から解放されました。

今回の第三の触地では、私たちは大地に触れて、私たちがであるという見方、及び私たちが生と死にさらされるという見方から解放されます。

私たちは全てのものであるということを理解し始める時、私たちの恐れは消え始めます。私たちは、空間と時間の次元(歴史的次元)に深く触れましたしかし、本当に恐れがなくなるためには、私たちは不生不死(生まれることも死ぬこともない)究極の次元を深く観なければなりません。自分はであり、死ぬという考えから、私たちは自分を解放する必要があります。究極の次元こそ、私たちが恐れのない場所を発見する所です。これが第三の触地です。それでは、あなたが第三の触地を準備するのを助けるガイド付き瞑想をどうぞ。

息を吸って、私は私が息を吸っているのを知っています。(吸って)

息を吐いて、私は私が息を吐いているのを知っています。 (吐いて)

息を吸って、私は大海の波に気付いています。 (波)

息を吐いて、私は大海の波に微笑みかけます。(私は微笑む)

息を吸って、私は波の中の水に気付いています。(水、波の中)

息を吐いて、私は波の中の水に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は波の誕生を見ます。 (波の誕生)

息を吐いて、私は波の誕生に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は波の死を見ます。 (波の死)

息を吐いて、私は波の死に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は水の不生の性質を見ます。 (水、生まれない)

息を吐いて、私は波の不生の性質に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は水の不死の性質を見ます。 (水、不死)

息を吐いて、私は水の不死の性質に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は私の体の誕生を見ます。 (私の体、誕生)

息を吐いて、私は私の体の誕生に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は私の体の死を見ます。 (私の体、死亡)

息を吐いて、私は私の体の死に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は私の体の不生の性質を見ます。 (私の体、不生の性質)

息を吐いて、私は私の体の不生の性質に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は私の体の不死の性質を見ます。 (私の体、不死の性質)

息を吐いて、私は私の体の不死の性質に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は意識の不生の性質を見ます。 (意識、生まれない)

息を吐いて、私は意識の不生の性質に微笑みかけます。 (私は微笑む)

息を吸って、私は私の吸う息にだけ気付いています。 (吸って)

息を吐いて、私は私の吐く息にだけ気付いています。 (吐いて)

(上記は、ティク・ナット・ハン著「不死、不恐怖(死がなければ、恐れなし」からの抜粋です。)

(解説)
上記は、「大海の波にとっての悟りは、波が自分は水であると実感する瞬間である」という、ティク・ナット・ハンの詩を思い出させます。完全な悟りを開いて、常時の仏陀になるためには、全ての概念の絶滅が不可欠です。なぜなら全ての概念は現実を切り刻むことによって分離を引き起こすからです。そのためには、私たちは全ての概念が誤りであることを理解する必要があります。そして、そのためには、私たちは究極の次元の究極の真理を理解する必要があります。それは、全体性非分離非差別、即ち非二元性です。波が、自分は水であると実感するように、私たちは、人間もまた独立していない(無自性)自己、目覚めた意識、即ち全宇宙であることを実感する必要があります。一度、私たちがこのことを理解するなら、完璧な自由を得ます。それが涅槃、即ち究極の次元です。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42025929

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