Monday, June 20, 2016

他人は鏡である。

「他人は鏡である」と指摘する次のティク・ナット・ハンの法話ビデオを深くご覧ください。
https://www.facebook.com/thichnhathanh/videos/vb.7691064634/10153883939529635/?type=2&theater
私の解説は以下の通りです。

「他人はすぐに私たちを映し出すである」というのは、的を射た表現です。その通りで、私たちは自分自身を他人の中に見ます。しかし、時々あるがままの私たちを映し出さない人もいると、私は感じます。その違いは、その人がマインドフルネスで生きているのか、失念で生きているのか、から来ている気がします。全てはあなたが誰であるかに依存します。もし、あなたがエゴ(独立した(自性)自己)であれば、幻想を見て(自分の不健全な心を投影して)、あるがままの相手をを映し出すことはできません。もし、あなたが目覚めた意識(独立していない(無自性)自己)であれば、あるがままの現実に触れ(自分の穏やかな心が鏡の如く現実を反射して)、あるがままの相手をを映し出すことができます。ですから、エゴ(独立した(自性)自己)は失念で生きており、一方、目覚めた意識(独立していない(無自性)自己)は、マインドフルネスで生きています。

以下の通り、他人はマインドフルである場合にのみ、鏡に成り得ます。
マインドフルな人 (A) × マインドフルな (B) = BはAの笑顔を映し出す。
マインドフルな (A) × 失念した (B) = BはAの笑顔を映し出さない。
失念した (A) × マインドフルな (B) = BはAの怒りを映し出す。
失念した (A) × 失念した (B) = BはAの怒りを映し出さない。

言い換えると、
マインドフルな (A) は、マインドフルな (B) と居ると心地良い。なぜなら、 (B) は、あるがままの (A) を映し出せるから。
マインドフルな (Aは、失念した (Bと居ると不快である。なぜなら、 (Bは、あるがままの (A) を映し出せないから。
失念した (Aは、マインドフルな (Bと居ると不快である。なぜなら、 (Bは、あるがままの (Aを映し出せるから。
失念した (Aは、失念した (Bと居ると心地良い。なぜなら、 (Bは、あるがままの (Aを映し出せないから。

全ては、私たちが誰であるかに依存します。
目覚めた意識 x 目覚めた意識 ⇒ ストレスなし問題なし
目覚めた意識 x エゴ ⇒ 問題 (ストレスなし)
エゴ x 目覚めた意識 ⇒ 問題 (ストレスなし)
エゴ x エゴ ⇒ ストレス + 問題
(注)ストレスは、分離から引き起こされる煩悩より生じる。

ですから、「あなたが誰なのか」、及び「あなたの相手が誰なのか」の両方を、あなたは知る必要があります。エゴの兆候は、「笑顔と愛の欠如」です。一方、目覚めた意識の兆候は、「純粋な笑顔と愛」です。そして、あなた自身とあなたの相手本質を認識した時、選択的水やり(正しい精進)が極めて重要です。もし、あなたの相手の本質がエゴであると認識したなら、あなたの不健全な心行(精神形成物)の種子水やりをされない、触れられないように、あなたはエゴから距離を取る必要があります。エゴから距離を取ることは、選択的水やり(正しい精進)であって、分離や差別ではありません。それを覚えておくことは非常に重要です。そして、それは自分のためだけでなく、全宇宙のためにも良いことです。とにかく、あなたは他を平和にするために、自分が平和になる必要があります。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/3-46874436