Friday, October 23, 2015

思考と瞑想

瞑想方法

ある政治学の教授が、瞑想する時に何を考えているのかと私に尋ねました。「私は何も考えていません」と彼に答えました。私はそこにあるもの、起こっていることに気を配るだけですと言いました。彼は懐疑的に見えましたが、それは真実です。座禅の間、私は自分の知能をほとんど活用していません私は物事を分析したり、数学の問題やなぞなぞのような複雑な問題を解決しようとはしません。たとえ、私が公案を試問していたとしても、公案はなぞ解きではないことを私は知っていますので、私はただ公案をそこに放置しておき、公案を説明したり、解説しようとはせず、公案を注意深く観察します試験は、自覚(悟りを開いた意識)的には、分析を意味しません。試験は、ただ継続した認識を意味します思考は精力的な精神作業を要し、私たちを疲れさせます。一方、自覚、または「認識」にくつろいでいる間は、そうではありません。瞑想は、「灰白質」の大動員を要求すると私たちは考える傾向がありますが、それは本当はそうではありません。瞑想者は思想家ではありません。従って、瞑想者は精神的労働を行いません。逆に、瞑想は心を休ませます

私たちの会話が始まってから、私は一度も私の友に彼の「灰白質」を使うことを頼んだことはありません。私は、私と一緒に物事を「見て」、「認識する」ことを彼に求めただけでした。そうするためには、私たちは集中しなければなりませんが、分析は不要です。私たちは、推論解釈なしで、気を配らなければなりません。気を配ることは、ただ純粋な注意を払うことを意味します。それは、眠りから目覚めへとあなたを連れて行くことができる乗り物です。もし、あなたが怒っているか、感じているか、考えているか、座禅を組んでいるか等を分からないなら、あなたは眠っています。アルベール・カミュは、彼の小説「異邦人」で、男としての彼の反英雄(ヒーローとなるような特徴に欠ける主役)を「死んだかのように生きる」人間と記述しています。これは、自覚(悟りを開いた意識)の光が無い暗い部屋で暮らしているようなものです。あなたが自覚のランプを点灯する時、あなたは眠り(幻想)から目覚め(悟り)へ超越します。サンスクリット語で動詞「buddh」は、「目を覚ますこと」を意味し、目を覚ました人は仏陀と呼ばれています。仏陀は常に目覚めている人です。時々、私たちはこの自覚(悟りを開いた意識)を持っていますので、私たちは「時々」仏陀です。 

 (上記は、ティク・ナット・ハン著「ザ・サン・マイ・ハート」(我が心、太陽)より抜粋、P34「眠りから目覚めへ」) 

(思 考は分離、差別、即ち二元性を引き起こします。ですから、思想家は自由を失うのです。もし、私たちが自他を分離するなら、恐れ、怒り、絶望、嫉妬のような 煩悩が生じ、苦しみます。デヴィッド・ボームが言ったように、私たちが見るものは、私たちが考えるものです。対象は、私たちの心の投影です。ですから、私 たちは煩悩に基づく精神投影を通して、幻想や錯覚を見るのです。つまり、私たちは現実の本質を見ることができないということです。ですから、私たちは瞑想 する時、思考を停止しなければならないのです。私たちが思考を停止した時、自覚(悟りを開いた意識)が復活し、現実の本質に触れ、私たちの内面と周囲で何 が起こっているかを認識するのです。)

(注) 括弧書きの中は私の解説です。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
 
ティク・ナット・ハン