Tuesday, December 1, 2015

言葉と概念

以下は、ティク・ナット・ハンの著書「太陽、私の心臓」からの抜粋です。

引用:
(言葉と概念)
言葉を使ってしまうと、概念的な分類から脱出することが特に困難です。たとえ、話者が巧みに概念的な分類を回避したとしても、聴者がまだ概念的な分類に陥ることがあり得ます。空き瓶の話を覚えていますか?空き瓶は、充填される前ですら、明確な形と大きさを持っていました。禅を実践する人々は、しばしば言葉を使用しないように助言します。これは、言葉を信用しないようにするためではなく、言葉で立ち往生する危険性を回避するためです。言葉を聴く人たちのために、できるだけ巧みに言葉を使用するように私たちを奨励しているのです。紀元二世紀に、龍樹『中論』を著し、概念を破壊するために概念を使用しました【二元性(正反対のペアの概念)を超越し、非二元性(「空」という表裏一体)へ導くために、「縁起」(相互に依存し共同発生)という概念を巧みな手段として用いました龍樹は、新しい教義を創造しようとしていたのではなく、水が存在するのに形は不要であることを証明するために、全ての瓶、全てのフラスコ、全ての花瓶、全ての容器を破壊しようとしていたのです。龍樹は、私たちが単なる反射(対象に対する心の投影)に自己満足することなく、直接現実に遭遇(現実の本質に触れることが)できるように、私たちのためのダンス、つまり私たちの分類障壁をそぎ落とすための踊り(全ての概念を投げ捨てる方法)を概説してくれたのです。


(知識は理解の障壁)
古い知識は、新しい理解の障害になります。仏教はそれを「知識で​​建てた障壁」と呼びます。目覚めた人(悟りを開いた人)のように、偉大な科学者たちは、偉大な内面の変化を成し遂げたのです。偉大な科学者たちが深遠な認識に到達できたのは、彼らの観察力集中力、そして目覚めた意識が深く開発されていたからです。理解は知識の蓄積ではありません。反対に、理解は知識から自由になるために闘争した結果です。理解は、現実とより一致する、新しい(洞察)のための余地を作るために、古い知識を粉砕します


(言葉で説明不可能
人間における理解は、概念考え言葉に翻訳されます。理解は、知識の小片の集合体ではありません。理解は直接的かつ即時の浸透です。感情の分野では、理解は気持ち(フィーリング)です。知性の分野では、理解は知覚です。理解は推論の集大成というよりも、むしろ直感です。時折、理解は私たちの中に完全に存在するものの、言葉、思考、または概念で理解を表現することができないことに私たちは気付きます。言葉で説明不可能」というのが、そのような瞬間における私たちの状況です。このような洞察は、仏教では「推論不可能、議論不可能、即ち教義や思考システムに組み込むこと不可能と言われています。
:引用おわり

(解説)

概念、思考、知覚、言葉は、人間のエゴ(独立した自己)によって創造される「分離」のためのものです。これらは分離(差別)を引き起こし、人間が自由を得るのを妨げます。 (自由は、非分離、即ち非差別を通してのみ、得ることができます。)ですから、これらは人々の苦しみを引き起こす煩悩の根源です。それ故に、私たちは完全な悟りを開くために、全ての概念を投げ捨てる必要があるのです。全ての概念の絶滅のためには、私たち(目覚めた意識)はマインドフルネス、集中、洞察を通して、​​現実の本質に触れる必要があります。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS

ティク・ナット・ハン